マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 第1話【感想】

「マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝(以下「外伝」) 第1話」の感想をメモしておきます。

両親の顔が見えないこと。そして、両親が不在であること。

いくつか印象的なポイントはありましたが、ひとつは、これ。「両親の顔が見えないこと、不在であること」。
もちろん、他のアニメでも、両親がそもそも不在であること自体はめずらしくないでしょう。学園もののストーリーなどでも、主人公の生活を最低限、経済的な意味では支えているはずの親は存在するはずですが、主人公が可愛い女の子に囲まれてハーレム状態でてんやわんやするよくあるストーリーのそういった展開に、親の存在は邪魔です。(だから、「都合よく」両親が海外で働いているといった設定が取られて、両親が不在化されるのかもしれません。)しかし、「外伝」の両親不在は、それとは質がまったくことなるように思われました。それはどのような意味でか。

想い出すのは、前作の主人公とその家族です


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前作「魔法少女まどか☆マギカ」では、主人公(まどか)には、バリバリのキャリアウーマン(?)の母、イクメンの父、加えてかわいい弟もおり、「居場所としての家族」が存在あったように思います。主人公は、家族に対して秘密(魔法少女に関すること)を持ち、葛藤を抱えながら自らの歩む道を決断します。そして家族(主に母)はその表明はされないが、主人公に生じている内的な変化に勘づき、激しい感情を伴う懸念を露わにしながらも主人公の意志を信頼し、尊重します。こうしたことは、主人公にしっかりした家族があったことを示すエピソードです。そもそも家族の存在が希薄であれば、秘密をもつ葛藤や、感情の交流が成立しないでしょう。

「外伝」第一話冒頭部で描かれる、主人公(いろは)の家族は、「主人公が自ら料理を準備している」ことも含めて、そうした家族のあり方が非常に対照的に見えました。なぜかは分からないが、母と思われる人物はどこか、「いろはちゃん」という呼び方さえ、どこかよそよそしい気もする。ほんとうの親なのだろうか、とさえ思ってしまった。また「顔が見えない」というのは比喩的な意味だけでなく、文字通りの意味で、絵として描かれていない。はたしてこのアニメの中で、両親の顔が見られるのか。

そういう意味で、「外伝」では、「両親の顔が見えず、不在である」ということがあえてはっきり描かれているようにも見ることができます。
それから、学校の教師。
電車で乗り合わせる大人たち。
いたるところにあふれる看板・はりがみは、禁止や指示ばかり(「あいさつをしましょう」「お静かに」「私語厳禁」)。
同級生からは、「親がいない」ことがうらやましがられている! (これは単にこの年代だから、というだけのことなのか、それ以上の意味があるのか。)
深読みすると、こういった要素を見ていて思うのは、この物語の少女たちにとって、(親や教師を含めた)信頼できる「大人」や「社会」といったものが存在しているのかなぁといったこと。
少女たちの不安定さに、とても心配になってしまいます。

 

ぼんやりと白いもの

印象に残ったセリフたち。↓
いろは「魔法少女がわたしのやりたいこと、なのかな…」
いろは「わたしの人生をかけた願いなのに、自分でもそれがわからないなんて。はぁ…なんでおぼえてないんだろう」
(「ぼんやりと白いものの正体は?」)いろは「願いごと」
いろは「わたしなんかでも役に立ててるのかなって。」
魔法少女は、何かを願い、その願いと引き換えに魔法少女になります。主人公のいろはは、その願いが何だったか、覚えていません。願いが何だったかが記憶に残らないことも含めた願いだったのでは、という推測がアニメーションの中で交わされています。願いがあったことは知っているけれど、その中身はわからない。だから、それは「まったくの無」ではなく、「有ることはわかっていはいるけれどはっきりしない何か」です。「ぼんやりと白いもの/天の川」は、いろはの願いのメタファーとして用いられています。(ちなみに、ぼんやりと白いものは何か、という教師は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の冒頭の教師を思い起こさせます。「このぼんやりと白いものがなにか皆さんはご承知ですか。」)
いろはの「願い」、いろはの「やりたいこと」って何なんでしょう。「わたしなんかでも人の役に立てること」なのでしょうか。
いろはがそれをどのように明確にしていくのか、次回以降が期待されます。

 

その他、印象的な言葉たち

「(誰か)のため」
「犠牲」
「救い/救われる」