震災日記 9月20日

 

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9月20日

 

北海道での大きな地震から二週間経つ。そろそろ言語化できるのではないかと考えつつ筆が進まないでいた。

 

振り返ると、今回の地震はさほどの人生上のゆれを与えなかったとも言える。滅多なことでは起こらないワクワクした大イベントの思い出へと、もはやなりつつある。と言いつつ、大きな地震は再度起こらぬ保証は無い。そのように考えるならば、浮かび上がるのは恐怖や不安と言うよりも、生の不可解性である。今ここにあるという「そのこと」、それを指して「生きている」と言うのならば、そのリアリティが浮かび上がり、一つの形なき疑問符へと化す。

 

死なくして生のリアリティは無い。生が当然となり、生の中の具体的何か(例えば職場の人間関係)が問題となる時、生は自明の前提となって背景に沈み、主題的に問われることは無い。大して今回の地震のように死の可能性が意識によぎる時、生そのものの不可解性が主題的に立ち現れる。「これ何ものぞ?」

 

震災によって一時的に物資が不足し、ライフラインが途絶えた時実感したのは、自分たちの生活の相互依存性でもあった。わたしは米粒一つ自ら生み出すことができない。農家の生産者、運ぶ人、売る人がいて初めて手元に届く。知らずの内に自分の生活のほぼすべてがいかに他者に依存しているか。他者からの恩恵を大いに受けているか。そういった、社会的な相互依存性とでも言うべきものを、実感した。健康な時にはそれを知らなくても、からだの一部が病んだり傷を負った時、はじめてこれまでそれが健康に機能していたことをしるようなものだろう。あの状況の中、混雑する客たちにいつも通り淡々とものを売ってくれたコンビニのアルバイトのお兄ちゃん・お姉ちゃんにはどれだけ感謝したことか。

 

他方で、また、私たちの生活が地面の上で成り立っていることを知りもした。わたしは社会の(人と人との関係性の)網目の中にある。そしてまた人間たちの暮らす社会は地面の上に在る。あるいはゆれない地面に依存して在る。そんなことも地面がゆれなければわからない。地面がゆれるのは人間のしたことではないが、地面が揺れないで存在するのも、人間のすることではない。地面がゆれずに在り続けているのは、別に北電のおかげでも、国のおかげでもない。そして私たちの生活はゆれないでいてくれる地面にただ全面的に依存している。

 

言うまでもないことを言ったところでどうという訳ではないが、その事実を深く知る時自ずと生じてくる感動というものがあるのも確かだろう。私たちの全生活がいくら便利で快適になり、周囲の環境を幾分コントロールできるようになったとしても、その生活全体が丸ごと根柢から支えてくれるものが、全く我々の力の及ばぬものであると知る時、そこに私が感じるのは一種の驚きである。

 

天災とは、人間の世への人間の世をこえたところからの、ある種の介入である。その介入をどのように理解し、どのように人生上に位置づけ、反応するかは人様々であるだろう。わたしにとって、地震はそれ自体、神秘の言葉に近く、心身に作用している。

 

生そのもの。「一体これは何か」。この問いを解体するならば、「私がある」とはどういうことか。あるいは、こうして世界が現前している(present)とはどういうことか。わたしは生きようと思って生きているのではない。生きようと「思う」ことは、いつも既に生きているが故に可能な事象である。生きようと思う時、生きているという事態はすでに成立してしまっている。とするならば、生きているという事態は何なのか。わたしは生きようと思っているから生きているのではないとするならば、生きようとしている、そして現に生きているのは一体何なのか。「そうしよう」としたからではなく、成立して作動し続けているこの生は一体何なのか。いや、「何なのか」という問いですら無い。「それ」に直面する時、「驚き」というか「不可解」の感情が胸に漂う。