詠嘆は息となり、眼前の秋と一つ

先週のいつの日からか、感じている、秋を。甲子園も終わった。しばらく雨が続いている。北海道の夏は短い。
あれ、つい先日、春の訪れを感じていた気もするが…と月並みな回顧を行っている。
季「節」の変わり「目」は、「節目」として人を回顧に誘うようである。
しかし、過去はどこへ過ぎ去るのか。想起するこの今に、過去はいつも映現しているだけなのか。
無常への感傷とも、形而上的思索ともつかない思いも、立ち上る。

 

秋には、深まりがある。これは他の季節にはない豊饒さだ。
春が深まる、と言うのはしっくりこない。春は「満ちる」だろうか。春はいのちが、陽だまりから順にみずからを満たして行く。
夏が深まる、と言うのも同様、しっくりこない。言えるのは、緑深まる、とまでだろうか。夏は、ものが顕わになり、自分の濃さを表に照らし「高まる」。高まりは一定期間持続するが、「深さ」へ至ることはない。(といいつつ、「夏の深い夜」はある気がしてきた。この「深い」は、「夜」を修飾しているととってもいいし、夏の述語(「夏が深い、そんな夜」)ととってもよい)
また、冬が深まる、とは言えるが、「深い冬」は、過酷さやシーンとした動きの停止を感じる。停止した沈黙の荘厳さに美が凍っている。

 

それに対して「秋の深まり」においては、計りしれない奥の行く感じ、濃淡する陰影に、ある種の豊饒さが示されている感じがする。当然そこには、必ず待ちうける衰退と沈黙の冬が見え、その「もの」の陰りが詠嘆を滲ませるわけであるが。詠嘆は息となり、眼前の秋と一つ。

 

季節を味わうことも、人生の大きな楽しみである。こんなにすばらしいものが万人に対して、ただで与えられているのだから、神さまは大変気前がいい。とは言え、与えられていても、そのことに気づかないとか、味わい方を知らないことも多いのかな。「秋だね、きれいだね」以上に立ち止まることなく、人の眼はどこかへと向かって流れ、眼の前のそれを、気づくときには失っている。気づく時には失っているのが過去である。ついこないだの今年の春もまたそうであったように。