マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 第1話【感想】

「マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝(以下「外伝」) 第1話」の感想をメモしておきます。

両親の顔が見えないこと。そして、両親が不在であること。

いくつか印象的なポイントはありましたが、ひとつは、これ。「両親の顔が見えないこと、不在であること」。
もちろん、他のアニメでも、両親がそもそも不在であること自体はめずらしくないでしょう。学園もののストーリーなどでも、主人公の生活を最低限、経済的な意味では支えているはずの親は存在するはずですが、主人公が可愛い女の子に囲まれてハーレム状態でてんやわんやするよくあるストーリーのそういった展開に、親の存在は邪魔です。(だから、「都合よく」両親が海外で働いているといった設定が取られて、両親が不在化されるのかもしれません。)しかし、「外伝」の両親不在は、それとは質がまったくことなるように思われました。それはどのような意味でか。

想い出すのは、前作の主人公とその家族です


「まどか」は魔法少女にならなかったら幸せだった【まどマギ考察】重大報告あります。


前作「魔法少女まどか☆マギカ」では、主人公(まどか)には、バリバリのキャリアウーマン(?)の母、イクメンの父、加えてかわいい弟もおり、「居場所としての家族」が存在あったように思います。主人公は、家族に対して秘密(魔法少女に関すること)を持ち、葛藤を抱えながら自らの歩む道を決断します。そして家族(主に母)はその表明はされないが、主人公に生じている内的な変化に勘づき、激しい感情を伴う懸念を露わにしながらも主人公の意志を信頼し、尊重します。こうしたことは、主人公にしっかりした家族があったことを示すエピソードです。そもそも家族の存在が希薄であれば、秘密をもつ葛藤や、感情の交流が成立しないでしょう。

「外伝」第一話冒頭部で描かれる、主人公(いろは)の家族は、「主人公が自ら料理を準備している」ことも含めて、そうした家族のあり方が非常に対照的に見えました。なぜかは分からないが、母と思われる人物はどこか、「いろはちゃん」という呼び方さえ、どこかよそよそしい気もする。ほんとうの親なのだろうか、とさえ思ってしまった。また「顔が見えない」というのは比喩的な意味だけでなく、文字通りの意味で、絵として描かれていない。はたしてこのアニメの中で、両親の顔が見られるのか。

そういう意味で、「外伝」では、「両親の顔が見えず、不在である」ということがあえてはっきり描かれているようにも見ることができます。
それから、学校の教師。
電車で乗り合わせる大人たち。
いたるところにあふれる看板・はりがみは、禁止や指示ばかり(「あいさつをしましょう」「お静かに」「私語厳禁」)。
同級生からは、「親がいない」ことがうらやましがられている! (これは単にこの年代だから、というだけのことなのか、それ以上の意味があるのか。)
深読みすると、こういった要素を見ていて思うのは、この物語の少女たちにとって、(親や教師を含めた)信頼できる「大人」や「社会」といったものが存在しているのかなぁといったこと。
少女たちの不安定さに、とても心配になってしまいます。

 

ぼんやりと白いもの

印象に残ったセリフたち。↓
いろは「魔法少女がわたしのやりたいこと、なのかな…」
いろは「わたしの人生をかけた願いなのに、自分でもそれがわからないなんて。はぁ…なんでおぼえてないんだろう」
(「ぼんやりと白いものの正体は?」)いろは「願いごと」
いろは「わたしなんかでも役に立ててるのかなって。」
魔法少女は、何かを願い、その願いと引き換えに魔法少女になります。主人公のいろはは、その願いが何だったか、覚えていません。願いが何だったかが記憶に残らないことも含めた願いだったのでは、という推測がアニメーションの中で交わされています。願いがあったことは知っているけれど、その中身はわからない。だから、それは「まったくの無」ではなく、「有ることはわかっていはいるけれどはっきりしない何か」です。「ぼんやりと白いもの/天の川」は、いろはの願いのメタファーとして用いられています。(ちなみに、ぼんやりと白いものは何か、という教師は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の冒頭の教師を思い起こさせます。「このぼんやりと白いものがなにか皆さんはご承知ですか。」)
いろはの「願い」、いろはの「やりたいこと」って何なんでしょう。「わたしなんかでも人の役に立てること」なのでしょうか。
いろはがそれをどのように明確にしていくのか、次回以降が期待されます。

 

その他、印象的な言葉たち

「(誰か)のため」
「犠牲」
「救い/救われる」

銀歯 歯医者に行った日に 続

 
kyodatsu.hatenablog.com

 

ここで何が感受されているかというと、「わたしとは何か」というその問いです。
歯医者に行って銀歯を入れられ、自己のアイデンティティにゆらぎが生まれている日常の現場の感覚です。それはどのような感覚なのか。

 

あの日、先ほどまでは、その辺に転がっていた一個の異物であった「それ=銀歯」が、口の中にはめられました。さきほどまで、銀歯は、わたしの一部ではなかった。いま目の前にあるコップを指してこれは私の一部です、と言う人がいないように、銀歯も同様に、かつ当然にわたしではありませんでした。ところが、歯医者さんの手によって、それを口にはめられ、それは、「わたしの体の一部」として、収まった。いや、「銀歯が体の一部である」のか、その区別も、あやふやです。今でも。でも、すくなくとも、体の一部であるかのようには、銀歯は普段ふるまっていはいるのですが。

 

銀歯は、わたしの一部なのでしょうか。先ほどまで、ただの異物であったものが、わたしの体の一部らしくなる出来事によって、ふだん、あたりまえのものとして前提とされている、「わたし」なるものに、ゆらぎが生じてきます。こうした事例の例を他にも上げてみましょう。日常には、たくさんあります。

 

例えば、先ほどまで頭に生えていた髪が、抜け落ち(体から分離して)床に落ちたとたん、あるいは、先ほどまで体の表面の一部を成していた皮膚が、お風呂でこすられ、浴槽の水の上に浮かんだとたん、それら(髪や爪)はなんだか、汚ないものとして経験されます。ましてやわたしの一部などとは決してみなされません。それらは、「さっきまで体の一部であった」ものです。髪や爪という物体が、抜ける・切られることによって、距離としては、たとえ数センチの物理的な移動しかこうむらなかったとしても、そこには決定的な意味のちがいが生じていることに、気づきます。

 

ところで、そもそも「とある何か」(=Xとしておきます。例えば、髪の毛、親指)が、「体の一部であること」は、すなわち、「Xは、わたしの一部であること」を意味するのでしょうか。たしかに、親指は、わたしの体の一部であり、わたしの一部であると、普段暗黙の裡に、前提としているような気がします。だれかが僕の体にふれたとき、「僕に触れるな!」というとき、体は、僕(の少なくとも一部)なのです。「Xが体の一部である」ならば「Xはわたしの一部である」と一般的に言っていいように思います。(例外は存在するでしょうか? もし存在したとすれば、それはどのような状況のどのような事例でしょうか?)もしそうするならば、わたしは、しょっちゅう、変動しています。たとえばごはんをたべるとき。食物は体の一部になります。あたらしく、わたしの一部になったわけです。このようにわたしは常に変動しています。

 

「それ=銀歯」は、わたしの体なのでしょうか。それによって、銀歯はわたしの一部であるか否か、その区分が変わってきます。何かが、わたしの体であるか否かを決定する条件は何なのでしょうか。また、さらに一般化して、何かがわたしの一部であることを決定する条件は何なのでしょうか。そしてさらに、そもそも、何かがわたしの一部である/一部でない、と言われる際に言及されている、「わたし(わたし本体)」とはいったい何なのでしょうか。

 

火葬され残された骨は、「わたしの体の一部である」のでしょうか。「Xがわたしの体の一部であるとするならば、Xはわたしの一部である」という確からしく思える公式を機械的に適用するなら、火葬され残された骨が「わたしの体の一部である」なら、そのとき、骨はわたしの一部であり続けます。それとも、からだは「わたしの体の一部だったもの」なのでしょうか。もしそうなら、その骨は、もうわたしの一部ではありません。抜け落ちた髪がもう、わたしの一部ではないように。

 

いや、そもそも人が死んだ際、残された体は、もはや、その人の一部ではないのではないでしょうか。体はわたしから置き去りにされてしまうのではないでしょうか。だとすれば、体を置き去りにしてきた「わたし」はそのときどこにいるのでしょうか。いや、体を自分の一部であるとしなくなった「わたし」などあるのでしょうか。脳髄の消滅=わたしの消滅なのでしょうか。

 

こういった問題感覚が、先の記事では言われているわけですし、日常の生活の中にはありふれています。このとき問われている、「わたしとは何か」という問いは、「わたしの本当にしたいことは何か/わたしってどんな人間なのか/わたしの居場所はどこにあるのか」等という問いとは似て非なるものです。後者の問いを問うために、「私って何だろう」という言葉を表現上、使うこともありますが。後者の問いでは、前者の問いがすでにして前提とされてしまっています。つまり、わたしなるものが存在していることそのものが前提となっていなければ、後者の問いを問うことはできません。後者の問いによって、前者の問いに至ることもあるかもしれませんが、しかし、銀歯は、前者の問い、わたしの存在そのものの問いを、直接的に喚起しています。

 

そういえば、歯とわたしについて書かれている本を思い出した。

 川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

それが今のところ、わたしに脳はあんまり関係ありませんで、なんとなればわたしは奥歯であるともいえるわけです。なぜならわたしは単純に脳にぐっとこん。脳にはあんまり魅力がないので、脳じゃないと、こうしたいのですよ。(p.9)

 

出会い

ベンチに腰かけ、宙に置くわたしの眼
ちいさなあなたが行き、過ぎる
この老人とちらと目が合い、ぺこりと会釈して

 

あなたの声を、わたしは知らない
わたしは忘れた、あなたの顔立ち、性別すら

 

確かなのは、
まなざしの交差、あのかちりとした感触
ふたつの時が透り重なる、瞬きの間(ま)
出会いという出来事

 

わたしにとってあなたは、姿ではない
声でもなく、名前でもない

 

そう、あなたは
出会いだった
出会いという出来事だった

 

その出来事として、
出会いという出来事として、
わたしは確かにあなたにあったのです

 

 

時間。大人になること。

ディズニーの『ピーターパン』。YouTubeで観ることができる。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ピーター・パン(Peter Pan) Part1

 


ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ピーター・パン(Peter Pan) Part2

 

1 大人と子ども。時間。追われること:頓着しないこと。

ピーターパンは、ご存知、大人になることのない、永遠の少年である。
「大人になる」ことと連動して、この話を「時間」という視点で見てみると、いくつかの興味深いメタファーに気づく。

 

まず、冒頭で、父と母がパーティーに遅れるとあわてて支度を整えているシーンがある。「時間に追われる」という表現は日常使うが、フック船長の場合、時計を飲み込んだワニに追われている。これは一個のメタファーと考えられないか。ある意味では、時間に追われるとは、ワニに追われるのと同じくらい危機的なことである。「そいつに追いつかれると、かみつかれてしまう」「わたしたちは、時計の音を耳にして、追いつかれないように必死に逃げ延びなければならない」。時は金なり、であるが、「時はワニなり」でもある。

 

また、ピーターパンが、フック船長によって、時限爆弾で爆破されそうになる、というのも一個のメタファーと考えると面白い。すべての少年は、時限爆弾で爆破され、ネバーランドにはいられなくなる。少年は時間に制約された来るべき爆発とともに少年ではいられなくなり、大人になる運命にある。

 

ところで、ピーターパンは大人と違い、は「時間」というものの扱いがかなり適当だ。たとえばウェインディを狙って攻撃するよう、「迷子たち」にけしかけたティンカーベルをピーターパンは「永久に追放する」と宣言する場面がある。しかし、ウェインディがその仕打ちに同情すると、「では一週間」と言い直す。ピーターパンにとって、「永久」も「一週間」も大差がないということだろうか。さらに、海賊たちに誘拐されたタイガーリリーを助けるシーンでも、ピーターパンの時間への無頓着さが見える。タイガーリリーは、海の中に縛られているので、じきに潮が満ちればおぼれて死んでしまう。(ここでも時限爆弾同様、時間の制約というモチーフが見て取れる。)しかし、「面白いから見ていて」とウェンディに言い、フック船長をからかって戦っているうちにタイガーリリーがピンチであることすら忘れている。

 

われわれの社会では、子どもを育てる過程で、時間の存在(より正確には時計的な時間の存在。つまり数量化される時間の存在)が徹底的に叩き込まれる。学校にはいたるところに時計があるし、音までなる。そういえば物語の中では、大きな大きな時計台がロンドンの街に登場していたが、時計は、われわれの社会の秩序の中枢である。社会の構成員としての大人になるということは、時計的時間というワニに追われることを学ぶということだ。


2 お母さんと大人になること

ピーターパンや迷子たちにお母さんがいないとはどういうことだろうか。
ウェンディは、お母さんのいる家に帰る。そして、帰って大人になることを宣言した。
大人になるためには、お母さんが必要だ、お母さんがいなければ、大人になることはできない…ということだろうか。
お母さんは子どもを育てる存在なのだから(現代では育児に積極的なお父さんもいるからステレオタイプではあるが)、それはある意味当然ではある。育ててくれる人がいなければ、人は大人になることはできない。ウェンディはすでにお母さんのようである。弟に対するかかわり方にしても、ピーターの影を靴を縫い付ける姿にしても。物語冒頭部から、すでにしてウェンディは半分大人だった。(そうだとするならば、ピーターに物語冒頭で、ネバーランドにきてお母さんになってくれという依頼は、初めから矛盾をはらんでいることにならないか。お母さんはこどもを大人にせずにはいられないのだから)

 

ここで浮かんできた問いは、「大人になること」=「お母さん(お父さん)になること」なのか、という問い。「お母さん(お父さん)」ではない「大人」になるという道も、あるはずだから。ウェンディは、大人になる。ウェンディはすでにしてお母さんのようではあるけれど、お母さんではない大人になるという道もある。ウェンディは何となくこのままいけば、お母さんになりそうな気がするが、大人になることは、お母さんまたはお父さんになることと同一であるという価値観は、唯一絶対ではない。さらに生まれる重要な問いは、「お父さんでもお母さんでもない大人とは、ではどのような大人なのか」。フック船長や海賊たちはその答えの一つではあるだろうけれど。「女は薪を運ぶ!」という古い価値を承知しないだけではなく、「女は家に帰る!」という選択に留まらない可能性も開かれている。

 

3 威厳のないお父さん

この物語では、父親の存在が、とても弱い。物語の途中で「お母さん」(というか母なるもの)は、賛美されるけれども、一家の父親である彼は全く威厳ある存在として見られていない。笑いの対象として描かれている。また、妻に身の回りをお世話してもらっている、大きなこども(少年)のようにも見える。この一家の父はなんだかかわいそうである。対して、威厳ある父として描かれているのは、インディアンの酋長である。威厳ある父は、この物語の中ではどこか異他的である。考えてみれば、「威厳ある父」というのは、どこか未開的とか、前近代的とか、少なくとも古風な感じがしないか。現代の家庭において父の威厳とは。

 

冒頭では、あれほどピーターパンに否定的で現実的な発想ばかりだった父親が、物語の最後で「あれは昔見たことがある」と語るシーンは感動的である。ウェンディはネバーランドに行って帰ることで、「大人」になる準備を一歩進んだわけだが、父には別のことが起こっている。そうすると、この作品の主たる対象者は実は単に子どもではないのではないか、という気もしてくる。父であることによって無条件に威厳を獲得できず、また家庭の中に居場所を持てない大人の男は、どう生きていくのか。はたしてファンタジーはその救いになるのか。

ケアすること・意味・報酬

先ほど、メイヤロフの『ケアの本質』を読み終わった。

いくつかの言葉がこころに印象を残している。

 

「私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、”場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十分に生きる(「生きる」は原文傍点)のである。」ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』ゆみる出版、p.132

 

ケアするとは、「何かが成長(自己実現)しようとするのを手助けする」ということ。そして人はケアにおいて、生の意味を生きるという。しかし重要なことだが、自分の人生の意味のために、ケアをするのではないとも言われる。

 

「私たちは自己実現したいがために他者をケアするのではなくて、他者をケアしていくことが、とりもなおさず私たちが自己実現していくことになるのである。」同上、p.215

 

メイヤロフに言わせれば、ケアすることがすなわち、自己実現していくことであり、生の意味を十分に生きることである。両者は別物ではない。

 

さて、ここで思い出したのは、アーヴィン・D・ヤーロムの次の文章である。(グループセラピーの療法的因子のひとつとされる「愛他主義」について論じられている箇所からの引用)

 

「もう一つ、愛他主義的行為に本来的に備わっている、さらに微妙な点がある。自分の人生の無意味さを嘆く患者の多くが、病的な自己没入に耽っており、そして強迫的な自己分析や自己実現のための歯ぎしりするような努力をしている。私は、ヴィクター・フランクル(Victor Frankl)の、人生の意味は結果として生じるものであり、意図的、自覚的に追及できるものではない、という論に賛成する。すなわちそれは、常に派生的な現象であって、私たちが自分自身を超越し、我を忘れて自己の外部の他者(ないし何か)に没入するときに実現するものなのである。」ヤーロム『グループサイコセラピー』西村書店、p.19


つまり、「生の意味」は、意図して手に入れられるものではなく、あくまで結果として派生的に実現するものであると言うのである。生の意味の獲得を目的として追及することでは、決してそれを得ることはできず、自己を忘れ何かに没入する時かえってそれが現れるということは、「微妙」ではあるが、決定的な人生上の逆説だろう。

 

メイヤロフとヤーロムに共通する論点は、「ケア/愛他主義的行動」は、「自己実現すること/生の意味」と強い関連を持っているが、前者は後者を「目当て」(目的)としてなされるのではない、ということだろう。すなわち「ケアすること」と「自己実現(生の意味)の間に、「手段-目的」の関係はない。

 

メイヤロフなら、他者をケアすることを手段とし、わたしの自己実現(人生の意味)を目的とするところに、そもそも他者のケアは成立しない、と考えるのではないだろうか。ケアすることは、他者の存在そのものの価値を感得しつつ行われるものだから、他者を自己の満足の手段として従属的な関係の下に置くことは、ケアではない、と。(もちろん、「わたしは自身の満足のために、クライエントさんとの関係を利用しています!」と宣言する人は少なく、「利用者さんのために」と言っておきながら、内心では(利用者や関係者からの)評価・承認を得ることに必死(あるいは批判を浴びないことに必死)ということに無自覚というのが、実際には近いのだろうけれども。)

 

また、ヤーロムの論理で言うなら、人生の意味・自己実現への「歯ぎしりするような努力」は、かえってそれから自らを遠ざけることになるだろう。これは、眠れぬ夜、眠ろう眠ろうと思うほど目がさえて眠りから遠ざかることや、瞑想で考え事をやめようとするほど雑念に心を乱される(というか、「考え事をやめよう」と思うこと自体がすでにひとつの考えの発生である)というパターンと似ている。意味を求めてケアする者は、かえってこれを得ない。

 

ところで、昨日の引用文のツイートが多くの人に読まれているようで、とても驚いている。向谷知先生の言葉、多くの人に響くものがあるのだろうか。

 

 

援助関係において、援助者が自らの満足のために「報酬」をそこに期待したくなる誘惑が、存在する。あるいは、自らの存在の意義をそこに求めたくなる誘惑もまた、ある。リッチモンドが言うように、「豊かな報い」を体験することもある。体験すれば、期待したくなる気持ちも生れるのも人情である気もするが。 

「ソーシャル・ワーカーたちの職業は骨の折れるものであるが、しかし各人は適切な最高の知的緊張を覚えさせられるし、一方では生活の人間的な面に接触して暖かい、絶えることのない、豊かな報いを受けているのである」メアリー・リッチモンド(小松源助訳)『ソーシャルケースワークとは何か』中央法規、p,153 

しかし、援助関係に援助者個人の人生の根本的な満足をもたらしてくれる何らかの「報酬」を期待することのはらむ問題については、上述のように、ヤーロムとメイヤロフを、一定の示唆を与えるものとして、読むことができるだろう。

 

他方で、おそらく、このような「豊かな報い」それ自体の享受を、辞退するべきだ、ということではない。結果として得られた「報酬」は執着せずに有難く享受して済ませればよい。心理的報酬それ自体を辞退することが「わきまえ」「たしなみ」だとするならば、利用者やその関係者に叱られた時、「しょげること」「おちこむこと」「かなしむこと」「逆に腹が立つこと」といった負の心理的報酬も「辞退します」と宣言すべきだということになる(そうできたら、愉快である)。言われているのはそういうことではないだろう。辞退する必要があるのは、援助実践という仕事に「生きがい」「よりどころ」「生きる力の源泉」を求めてしまうことである。「報酬それ自体の辞退」と「報酬をそこに求めることの辞退・よりどころにしてしまうことの辞退」の区別(わきまえ)も、微妙だが、大きな違いのように思われる。メイヤロフを参考にすると、たぶんこういうことである。「ケアすること(仕事)の上に生きる意味を求めているのではないからこそ、ケアの対象に寄生的に依存することなく自立した援助者として相手をケアすることが可能となるのであり、逆説的に、それは人生の意味を直接生きることに等しい」。

 

 

そこに観るのは、「自己の歩み」ではなく、「自己である歩み」である

昨晩、過去に書いた日記を読み返す作業をしていた。気がつくと年が明け、3時になっていた。

 

日記と言うものを書き始めたのは中学3年の時からで、以来、思いついた時に断続的に書きつづけている。折に触れて読み返すと、その幼稚さに苦笑したり、逆に思わぬ「名言」に心動かされることもある。日記はある意味、自己の影を映す鏡であるが、そこで見出される自己像は、それを読んでいるたった今の「わたし」のものであると思えない、つまり、これを書いた「その人」が、本当に「自分」であるととても思えないようなものもある。

 

今回、とくにそう感じたのは、日記を書き始めた、中学時代のものだった。恥ずかしくなるようなものばかりだから、自分のものと認めたくないという気持ちもないではないが、それだけでなく印象的なのは、当時の文面を飾るのが、どれもこれも、借り物の言葉ばかりということ。当時好んで読んでいた、漫画。ラジオ。学校での周囲のクラスメイトの話し方。そうしたものの模倣と思われる言い回しばかり。だからこれは、わたしの言葉ではない、と今読んで思ってしまう。何か、そうした外部に存在する格好の言いもの、を寄せ集めて自己を構成・表現しようとしている、とでも言うべきか。一言で言うと、虚飾なのだが、その言葉はわたしのものではない、それゆえに当時の文章を読んでも、これは自分が書いたとは思えない…というような言葉の持つ温度や感触といった肌触りの違い(あるいは体臭の違い)があまりにも今と大きい。

 


と書きつつ、「しかし今、こうして書いている文章でさえ、実は自分以外の誰かの言葉の模倣に過ぎないのではないか」という問いが生じる。好んで用いる言い回し、文章のリズム、構成。これらは、すべて私が過去に接した他者の声(耳で聞いた、目で読んだ)の模倣的な反復に過ぎないのではないか。すなわち、わたしの精神を構成するのは、他者から借用された、無数の声に過ぎないのではないか。そうであるとするならば、今こうして書いている文章も、中学時代の文章も、「借り物」である点に関して違いは無いことになる。

 

わたしは、わたしという存在を、無数の声が去来する舞台のように表象することができる。わたしとは、「言場」であると以前考えたこともある。「言葉」はわたしの所有物ではない。言葉は来たり、去る。わたしが言葉をつむぐそこに、なんらのオリジナリティ、あるいは創造性と言うものが存在するのか、はなはだ疑わしい。言場としてのわたしは、意味を創出する泉であるのか。それともそこは、言葉が流れが去来する単なるため池に過ぎないのか。

 

たしかに、言葉は、他者から借用する。意識せずとも、それは模倣の側面を持つ。しかし、反復する際、「語りなおす」という働きがある。語りなおすのは、新しい行為である。わたしは無限に言葉が反響する虚ろな空間、言葉を備蓄するため池ではない。意味は、わたしという言場において、混成される。ある言葉はある言葉に香りをつけ、新しい芳香を漂わせる。そこに漂う「意味香」の磁場は、それが微かではあってもこれまでにない作用をもたらす。言葉は「借り物」であっても、その古い言葉を新しく使うことができる。そこに「模倣」とは違う、「生成」という現象はある。そしてその「生成」の仕方の固有性に、それを行う精神の「体臭」を我々は感じるのである。また書き手の喜びは、この「生成」への関与にあることは、体験的な事実でもある。わたしの声は単なる無機的な他者の声の反響ではない。わたしは無数の声が去来・反復する場であると同時に、意味を創出する泉でもある。したがって上でたてた問い(言場としてのわたしは、意味を創出する泉であるのか。それともそこは、言葉が流れが去来する単なるため池に過ぎないのか)に対する答えは、両方である、というものになるだろう。

 

このように考えるならば、日記を読み返す作業の中で、「私の書いたもの」と「私が書いたと思えないもの」を区別するのは、それがたんなる模倣であるか、体臭のこもった生成であるか、を嗅ぎわける嗅覚だ、と言うこともできる。そして、生成には、生成された内容が、例え今生成し得る内容と異なるものであったとしても、そこには、同じわたしの匂いのようなものがある。わたしがかつて悩んでいた悩み、それはもはや問題ではなくなり、現在は、まったく異なった見解をもっていたとしても、その悩みが他者からの「借り物」ではなく、わたしのものとして生成的に表現されていたならば、今それを読んでそれはたしかにわたしのものとして感じれられる、ということである。つまり、ジェンドリンの言い方を借りるなら、これは「変化-内-継続」を特徴とする「推進」の歩みをそこに見ることができる、というそのことだ。そこに観るのは、「自己の歩み」ではなく、「自己である歩み」である。あぁ、その歩みの不思議なこと。

 

 

ほんとうに読みたい文章を求めて

今日久々に、テナーサックスの演奏をした。

 

3年間ほど、文字通り誇張でなく、Stan Getzを聴かない日は無い時期があった。
でも、今はほぼ、Getzを聴かない。というか音楽そのものをあまり聴かない。

 

今日たまたま気まぐれに、テナーを吹いて、こうして演奏するのは、この世に、自分の聴きたい音楽が存在しないからでないか、と思った。Getzでさえ、そのような音楽でない。だから、本当に聴きたい音楽を聴くために、自ら演奏するのだ、と。聴きたい音楽の奏でられる瞬間が与えられる日は幸いである。

 

文章を書くのも、実のところ、同じ理由による。そして、そのほとんどが失敗に終わるのだが。そういう時、文は、呻きのように書かれ、紙くずを噛むように読まれる。この文がそうであるように。