銀歯 歯医者に行った日に 続

 
kyodatsu.hatenablog.com

 

ここで何が感受されているかというと、「わたしとは何か」というその問いです。
歯医者に行って銀歯を入れられ、自己のアイデンティティにゆらぎが生まれている日常の現場の感覚です。それはどのような感覚なのか。

 

あの日、先ほどまでは、その辺に転がっていた一個の異物であった「それ=銀歯」が、口の中にはめられました。さきほどまで、銀歯は、わたしの一部ではなかった。いま目の前にあるコップを指してこれは私の一部です、と言う人がいないように、銀歯も同様に、かつ当然にわたしではありませんでした。ところが、歯医者さんの手によって、それを口にはめられ、それは、「わたしの体の一部」として、収まった。いや、「銀歯が体の一部である」のか、その区別も、あやふやです。今でも。でも、すくなくとも、体の一部であるかのようには、銀歯は普段ふるまっていはいるのですが。

 

銀歯は、わたしの一部なのでしょうか。先ほどまで、ただの異物であったものが、わたしの体の一部らしくなる出来事によって、ふだん、あたりまえのものとして前提とされている、「わたし」なるものに、ゆらぎが生じてきます。こうした事例の例を他にも上げてみましょう。日常には、たくさんあります。

 

例えば、先ほどまで頭に生えていた髪が、抜け落ち(体から分離して)床に落ちたとたん、あるいは、先ほどまで体の表面の一部を成していた皮膚が、お風呂でこすられ、浴槽の水の上に浮かんだとたん、それら(髪や爪)はなんだか、汚ないものとして経験されます。ましてやわたしの一部などとは決してみなされません。それらは、「さっきまで体の一部であった」ものです。髪や爪という物体が、抜ける・切られることによって、距離としては、たとえ数センチの物理的な移動しかこうむらなかったとしても、そこには決定的な意味のちがいが生じていることに、気づきます。

 

ところで、そもそも「とある何か」(=Xとしておきます。例えば、髪の毛、親指)が、「体の一部であること」は、すなわち、「Xは、わたしの一部であること」を意味するのでしょうか。たしかに、親指は、わたしの体の一部であり、わたしの一部であると、普段暗黙の裡に、前提としているような気がします。だれかが僕の体にふれたとき、「僕に触れるな!」というとき、体は、僕(の少なくとも一部)なのです。「Xが体の一部である」ならば「Xはわたしの一部である」と一般的に言っていいように思います。(例外は存在するでしょうか? もし存在したとすれば、それはどのような状況のどのような事例でしょうか?)もしそうするならば、わたしは、しょっちゅう、変動しています。たとえばごはんをたべるとき。食物は体の一部になります。あたらしく、わたしの一部になったわけです。このようにわたしは常に変動しています。

 

「それ=銀歯」は、わたしの体なのでしょうか。それによって、銀歯はわたしの一部であるか否か、その区分が変わってきます。何かが、わたしの体であるか否かを決定する条件は何なのでしょうか。また、さらに一般化して、何かがわたしの一部であることを決定する条件は何なのでしょうか。そしてさらに、そもそも、何かがわたしの一部である/一部でない、と言われる際に言及されている、「わたし(わたし本体)」とはいったい何なのでしょうか。

 

火葬され残された骨は、「わたしの体の一部である」のでしょうか。「Xがわたしの体の一部であるとするならば、Xはわたしの一部である」という確からしく思える公式を機械的に適用するなら、火葬され残された骨が「わたしの体の一部である」なら、そのとき、骨はわたしの一部であり続けます。それとも、からだは「わたしの体の一部だったもの」なのでしょうか。もしそうなら、その骨は、もうわたしの一部ではありません。抜け落ちた髪がもう、わたしの一部ではないように。

 

いや、そもそも人が死んだ際、残された体は、もはや、その人の一部ではないのではないでしょうか。体はわたしから置き去りにされてしまうのではないでしょうか。だとすれば、体を置き去りにしてきた「わたし」はそのときどこにいるのでしょうか。いや、体を自分の一部であるとしなくなった「わたし」などあるのでしょうか。脳髄の消滅=わたしの消滅なのでしょうか。

 

こういった問題感覚が、先の記事では言われているわけですし、日常の生活の中にはありふれています。このとき問われている、「わたしとは何か」という問いは、「わたしの本当にしたいことは何か/わたしってどんな人間なのか/わたしの居場所はどこにあるのか」等という問いとは似て非なるものです。後者の問いを問うために、「私って何だろう」という言葉を表現上、使うこともありますが。後者の問いでは、前者の問いがすでにして前提とされてしまっています。つまり、わたしなるものが存在していることそのものが前提となっていなければ、後者の問いを問うことはできません。後者の問いによって、前者の問いに至ることもあるかもしれませんが、しかし、銀歯は、前者の問い、わたしの存在そのものの問いを、直接的に喚起しています。

 

そういえば、歯とわたしについて書かれている本を思い出した。

 川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

それが今のところ、わたしに脳はあんまり関係ありませんで、なんとなればわたしは奥歯であるともいえるわけです。なぜならわたしは単純に脳にぐっとこん。脳にはあんまり魅力がないので、脳じゃないと、こうしたいのですよ。(p.9)