時間。大人になること。

ディズニーの『ピーターパン』。YouTubeで観ることができる。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ピーター・パン(Peter Pan) Part1

 


ウォルト・ディズニー(Walt Disney) - ピーター・パン(Peter Pan) Part2

 

1 大人と子ども。時間。追われること:頓着しないこと。

ピーターパンは、ご存知、大人になることのない、永遠の少年である。
「大人になる」ことと連動して、この話を「時間」という視点で見てみると、いくつかの興味深いメタファーに気づく。

 

まず、冒頭で、父と母がパーティーに遅れるとあわてて支度を整えているシーンがある。「時間に追われる」という表現は日常使うが、フック船長の場合、時計を飲み込んだワニに追われている。これは一個のメタファーと考えられないか。ある意味では、時間に追われるとは、ワニに追われるのと同じくらい危機的なことである。「そいつに追いつかれると、かみつかれてしまう」「わたしたちは、時計の音を耳にして、追いつかれないように必死に逃げ延びなければならない」。時は金なり、であるが、「時はワニなり」でもある。

 

また、ピーターパンが、フック船長によって、時限爆弾で爆破されそうになる、というのも一個のメタファーと考えると面白い。すべての少年は、時限爆弾で爆破され、ネバーランドにはいられなくなる。少年は時間に制約された来るべき爆発とともに少年ではいられなくなり、大人になる運命にある。

 

ところで、ピーターパンは大人と違い、は「時間」というものの扱いがかなり適当だ。たとえばウェインディを狙って攻撃するよう、「迷子たち」にけしかけたティンカーベルをピーターパンは「永久に追放する」と宣言する場面がある。しかし、ウェインディがその仕打ちに同情すると、「では一週間」と言い直す。ピーターパンにとって、「永久」も「一週間」も大差がないということだろうか。さらに、海賊たちに誘拐されたタイガーリリーを助けるシーンでも、ピーターパンの時間への無頓着さが見える。タイガーリリーは、海の中に縛られているので、じきに潮が満ちればおぼれて死んでしまう。(ここでも時限爆弾同様、時間の制約というモチーフが見て取れる。)しかし、「面白いから見ていて」とウェンディに言い、フック船長をからかって戦っているうちにタイガーリリーがピンチであることすら忘れている。

 

われわれの社会では、子どもを育てる過程で、時間の存在(より正確には時計的な時間の存在。つまり数量化される時間の存在)が徹底的に叩き込まれる。学校にはいたるところに時計があるし、音までなる。そういえば物語の中では、大きな大きな時計台がロンドンの街に登場していたが、時計は、われわれの社会の秩序の中枢である。社会の構成員としての大人になるということは、時計的時間というワニに追われることを学ぶということだ。


2 お母さんと大人になること

ピーターパンや迷子たちにお母さんがいないとはどういうことだろうか。
ウェンディは、お母さんのいる家に帰る。そして、帰って大人になることを宣言した。
大人になるためには、お母さんが必要だ、お母さんがいなければ、大人になることはできない…ということだろうか。
お母さんは子どもを育てる存在なのだから(現代では育児に積極的なお父さんもいるからステレオタイプではあるが)、それはある意味当然ではある。育ててくれる人がいなければ、人は大人になることはできない。ウェンディはすでにお母さんのようである。弟に対するかかわり方にしても、ピーターの影を靴を縫い付ける姿にしても。物語冒頭部から、すでにしてウェンディは半分大人だった。(そうだとするならば、ピーターに物語冒頭で、ネバーランドにきてお母さんになってくれという依頼は、初めから矛盾をはらんでいることにならないか。お母さんはこどもを大人にせずにはいられないのだから)

 

ここで浮かんできた問いは、「大人になること」=「お母さん(お父さん)になること」なのか、という問い。「お母さん(お父さん)」ではない「大人」になるという道も、あるはずだから。ウェンディは、大人になる。ウェンディはすでにしてお母さんのようではあるけれど、お母さんではない大人になるという道もある。ウェンディは何となくこのままいけば、お母さんになりそうな気がするが、大人になることは、お母さんまたはお父さんになることと同一であるという価値観は、唯一絶対ではない。さらに生まれる重要な問いは、「お父さんでもお母さんでもない大人とは、ではどのような大人なのか」。フック船長や海賊たちはその答えの一つではあるだろうけれど。「女は薪を運ぶ!」という古い価値を承知しないだけではなく、「女は家に帰る!」という選択に留まらない可能性も開かれている。

 

3 威厳のないお父さん

この物語では、父親の存在が、とても弱い。物語の途中で「お母さん」(というか母なるもの)は、賛美されるけれども、一家の父親である彼は全く威厳ある存在として見られていない。笑いの対象として描かれている。また、妻に身の回りをお世話してもらっている、大きなこども(少年)のようにも見える。この一家の父はなんだかかわいそうである。対して、威厳ある父として描かれているのは、インディアンの酋長である。威厳ある父は、この物語の中ではどこか異他的である。考えてみれば、「威厳ある父」というのは、どこか未開的とか、前近代的とか、少なくとも古風な感じがしないか。現代の家庭において父の威厳とは。

 

冒頭では、あれほどピーターパンに否定的で現実的な発想ばかりだった父親が、物語の最後で「あれは昔見たことがある」と語るシーンは感動的である。ウェンディはネバーランドに行って帰ることで、「大人」になる準備を一歩進んだわけだが、父には別のことが起こっている。そうすると、この作品の主たる対象者は実は単に子どもではないのではないか、という気もしてくる。父であることによって無条件に威厳を獲得できず、また家庭の中に居場所を持てない大人の男は、どう生きていくのか。はたしてファンタジーはその救いになるのか。