ケアすること・意味・報酬

先ほど、メイヤロフの『ケアの本質』を読み終わった。

いくつかの言葉がこころに印象を残している。

 

「私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、”場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十分に生きる(「生きる」は原文傍点)のである。」ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』ゆみる出版、p.132

 

ケアするとは、「何かが成長(自己実現)しようとするのを手助けする」ということ。そして人はケアにおいて、生の意味を生きるという。しかし重要なことだが、自分の人生の意味のために、ケアをするのではないとも言われる。

 

「私たちは自己実現したいがために他者をケアするのではなくて、他者をケアしていくことが、とりもなおさず私たちが自己実現していくことになるのである。」同上、p.215

 

メイヤロフに言わせれば、ケアすることがすなわち、自己実現していくことであり、生の意味を十分に生きることである。両者は別物ではない。

 

さて、ここで思い出したのは、アーヴィン・D・ヤーロムの次の文章である。(グループセラピーの療法的因子のひとつとされる「愛他主義」について論じられている箇所からの引用)

 

「もう一つ、愛他主義的行為に本来的に備わっている、さらに微妙な点がある。自分の人生の無意味さを嘆く患者の多くが、病的な自己没入に耽っており、そして強迫的な自己分析や自己実現のための歯ぎしりするような努力をしている。私は、ヴィクター・フランクル(Victor Frankl)の、人生の意味は結果として生じるものであり、意図的、自覚的に追及できるものではない、という論に賛成する。すなわちそれは、常に派生的な現象であって、私たちが自分自身を超越し、我を忘れて自己の外部の他者(ないし何か)に没入するときに実現するものなのである。」ヤーロム『グループサイコセラピー』西村書店、p.19


つまり、「生の意味」は、意図して手に入れられるものではなく、あくまで結果として派生的に実現するものであると言うのである。生の意味の獲得を目的として追及することでは、決してそれを得ることはできず、自己を忘れ何かに没入する時かえってそれが現れるということは、「微妙」ではあるが、決定的な人生上の逆説だろう。

 

メイヤロフとヤーロムに共通する論点は、「ケア/愛他主義的行動」は、「自己実現すること/生の意味」と強い関連を持っているが、前者は後者を「目当て」(目的)としてなされるのではない、ということだろう。すなわち「ケアすること」と「自己実現(生の意味)の間に、「手段-目的」の関係はない。

 

メイヤロフなら、他者をケアすることを手段とし、わたしの自己実現(人生の意味)を目的とするところに、そもそも他者のケアは成立しない、と考えるのではないだろうか。ケアすることは、他者の存在そのものの価値を感得しつつ行われるものだから、他者を自己の満足の手段として従属的な関係の下に置くことは、ケアではない、と。(もちろん、「わたしは自身の満足のために、クライエントさんとの関係を利用しています!」と宣言する人は少なく、「利用者さんのために」と言っておきながら、内心では(利用者や関係者からの)評価・承認を得ることに必死(あるいは批判を浴びないことに必死)ということに無自覚というのが、実際には近いのだろうけれども。)

 

また、ヤーロムの論理で言うなら、人生の意味・自己実現への「歯ぎしりするような努力」は、かえってそれから自らを遠ざけることになるだろう。これは、眠れぬ夜、眠ろう眠ろうと思うほど目がさえて眠りから遠ざかることや、瞑想で考え事をやめようとするほど雑念に心を乱される(というか、「考え事をやめよう」と思うこと自体がすでにひとつの考えの発生である)というパターンと似ている。意味を求めてケアする者は、かえってこれを得ない。

 

ところで、昨日の引用文のツイートが多くの人に読まれているようで、とても驚いている。向谷知先生の言葉、多くの人に響くものがあるのだろうか。

 

 

援助関係において、援助者が自らの満足のために「報酬」をそこに期待したくなる誘惑が、存在する。あるいは、自らの存在の意義をそこに求めたくなる誘惑もまた、ある。リッチモンドが言うように、「豊かな報い」を体験することもある。体験すれば、期待したくなる気持ちも生れるのも人情である気もするが。 

「ソーシャル・ワーカーたちの職業は骨の折れるものであるが、しかし各人は適切な最高の知的緊張を覚えさせられるし、一方では生活の人間的な面に接触して暖かい、絶えることのない、豊かな報いを受けているのである」メアリー・リッチモンド(小松源助訳)『ソーシャルケースワークとは何か』中央法規、p,153 

しかし、援助関係に援助者個人の人生の根本的な満足をもたらしてくれる何らかの「報酬」を期待することのはらむ問題については、上述のように、ヤーロムとメイヤロフを、一定の示唆を与えるものとして、読むことができるだろう。

 

他方で、おそらく、このような「豊かな報い」それ自体の享受を、辞退するべきだ、ということではない。結果として得られた「報酬」は執着せずに有難く享受して済ませればよい。心理的報酬それ自体を辞退することが「わきまえ」「たしなみ」だとするならば、利用者やその関係者に叱られた時、「しょげること」「おちこむこと」「かなしむこと」「逆に腹が立つこと」といった負の心理的報酬も「辞退します」と宣言すべきだということになる(そうできたら、愉快である)。言われているのはそういうことではないだろう。辞退する必要があるのは、援助実践という仕事に「生きがい」「よりどころ」「生きる力の源泉」を求めてしまうことである。「報酬それ自体の辞退」と「報酬をそこに求めることの辞退・よりどころにしてしまうことの辞退」の区別(わきまえ)も、微妙だが、大きな違いのように思われる。メイヤロフを参考にすると、たぶんこういうことである。「ケアすること(仕事)の上に生きる意味を求めているのではないからこそ、ケアの対象に寄生的に依存することなく自立した援助者として相手をケアすることが可能となるのであり、逆説的に、それは人生の意味を直接生きることに等しい」。