夢は与えられるものなのか

街頭募金を行っている団体を見た。こどものための募金を行う団体らしく、「こどもたちに夢を与えてください」と呼びかけていた。わたしは、近くのベンチに腰掛けて、昼食のドーナツを食べていた。秋のひろい青空、ひんやりとした風に、木々のいろづいた葉はきらきらと手を振るようだった。

 

 

 

わたしはことばに過敏な方なので(少なくとも自分の関心のある領域と重なりを持つ部分に関しては)、募金を行っている人々の声をきき、ある種のみじめっぽさを感じた。

 

「人に与えられる夢なんて、奪われるのも簡単だろうに」

「夢が他者に与えられるようなものならば、容易に奪われもする」

「そんな精神の不自由を許してしまってよいのか」

 

夢は、たとえ外的状況がどんなだったとしても描き得る。そこに人間の主体性、創造性がある。精神の自由がある。希望を持つという精神の高貴な能力がある。

 

夢は他者から与えられるものではなく、自ら描くものである。

 

無論、夢を実現させる上には、現実的な制約がある。社会的な抑圧や、機会の不平等も今の社会では大きいだろう。学びたい何かがあり、教育を受けたくて、学費をぽんと出してくれる親のいる子もいれば、奨学金を借り返済する責を負って学ばねばならない子もいれば、あきらめざるを得ない子もいるだろう。募金を呼び掛けているのはそれゆえだろう。

 

しかし、募金によって与えられるのは、夢それ自体ではない。間違えてはならない。与えられるのは夢を実現させるための条件(活用可能な資源・手段・チャンスなど)である。

 

先ほど、「みじめっぽさを感じた」と書いた。いまはもうすこし、その意味を正確に表現できる気がする。

 

「夢を与えてもらわなければならない立場に、自分があるとみなされていると想像すると、わたしはとてもみじめな気持ちになる。夢を見る存在として、尊重されていないように感じる。『夢を与える』と言われると、自分の未来を他者に決定され、従属させられているような、またそうされねば救いようのない存在と見なされているような、みじめな気持ちになる。端的に、与えられなければ夢のない人と見なされることが、みじめである。経済的に豊かでないことは事実として受け容れるが、しかし精神まで貧しい無力なものと前提されているようで、みじめである」

 

だから、「こどもたちに夢を与えてください」ではなく、「こどもたちが夢を実現する、その応援をして下さい」。わたしがそのこどもだったら、このように言ってほしい。

 

とここまで考えつつしかし、夢を与えられなければ、持つことすらできない、そのようなこどももいるのではないかと思い馳せる。そういうこどもは、たとえばスポーツ選手の活躍をみて、「夢を与えられる」必要があるのではないか。それほどまでに、傷つき、可能性を実現させていく芽をつぶされたこどももいるのではないか。「人に与えられる夢なんて、奪われるのも簡単だろうに」などと言ったが、それは高踏的であったのではないか。容易に奪われ、くじかれてしまうのが、夢なのではないだろうか。そして世にはそのような暴力があふれているのでないか。そういうこどもにやはり夢は与えてやらねばならないのではないか。

 

いやそれでも、たとえ「与えてやらねばならない」のだったとしても、他者が相手に夢を与えてやることなど、原理的に不可能である。「スポーツ選手になること、これがあなたの夢です」と他者に与えられた「夢」。それは、ほんとうに、「夢」と言えるのか。いや、言えない。夢は自らがそれを望むのでなければならない。たとえ他者に夢が与えられたとしても、当人がそれを自らの夢として望むのでなければ、それは夢とならない。人には、何かを望む力がある。そして、何かを望まない力もある。それ故に、他者が、ある夢を夢として与えることはできない。夢は、それを当人が望み、描いて夢となるからである。

 

他者ができる最大のことは、夢を描く力、希望を持つ力を、喚起することあるいは触発することである。それは、力を「与える」こととは違う。種が水を吸い、発芽する時、水が、種に芽を与えたのではない。種には芽を発する力がある。水や土や周囲の暖かさは、種を触発し、芽生えを喚起したにすぎない。

 

だからやはり、「こどもたちに夢を与えてください」ではなく、「こどもたちが夢を実現する、その応援をして下さい」。わたしがそのこどもだったら、このように言ってほしい。わたしは細かいことにこだわっているのだろうか。