生きられる時間

見田宗介社会学入門 人間と社会の未来』(岩波現代新書)で、ペルー人の「時間」認識、いやおそらく認識以前に、彼らにとってすでにそうであるような「時間」感覚とでもいうようなものについて、語られている。それは、「近代」的な、時間感覚と対称を成すものである。すなわち、「生きられる時間」。

たとえば、バスを待つような時間(ペルーの田舎では本数が午前午後それぞれ一本ずつくらいしかない)。ペルーであれば、こちらが日本人なら、「フジモリ大統領に似ているとか似ていないとかいう話題で、すぐにみんなで盛り上がってしまう。バスを待つ時には待つという時間を楽しんでしまう。時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか、お金と同じ動詞を使って考えるという習慣は「近代」の精神で("Time is money"!)、彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものです」(p.32)

 

「時間は金である」というメタファーによって、見田の言うように、時間は「使う」もの「費やす」もの、「無駄にする」ものであるというような理解が生ずる。他には、「計算可能なもの」「何かと交換し得るもの」「それ自体に価値はないもの(何かと交換し得ることによってのみ価値がある)」という意味もそこに見ることができるだろう。

 

「近代」の精神では、バスの待ち時間は、それ自体に意味は無く、無駄である。待ち時間は、バスが来て、目的地に到着して何かを達成するという目的のための、手段でしかなく、それ自体に意義のない時間。未来に達成される目的に媒介されて、ようやく意味を持つ。無駄は無い方がよい。それゆえに、スケジュール管理が必要となる。また、場合によっては、それが勤務時間内であるならば、給料に見合った仕事を、待ち時間であったとしても、しなければならない、という発想とも連結するだろう。その際為すべきことは、取引相手との電話であるかもしれないし、タブレットPCによる、何らかの文書の作成であるかもしれないが、ともあれ効率的に「使われ」ねばならないものと、時間はみなされる。そうしなければ、時間を「無駄にしている」と叱責に対象になってしまう。時は金なりというメタファーは、例えば、そのような時間理解をもたらす。

 

「時は金なり」というメタファーを、まさにそのままの姿で描き出した物語が、エンデの『モモ』であるという言い方をすることもできるだろう。「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちは、時間を「葉巻」という存在へと、計算可能で消費し得る何かへと物象化している。無論、それも時間の在る側面を示す真理ではあるだろう。だから、「遅いほど早い」という時間についての、別種の真理を語ったカシオペイアも、時によっては、「ジカンヲ ムダニシテイル!」とモモに警告したのである。

 

「時間は、金なり」。エンデは対して、こう語る。「なぜなら、時間とはいのちである故に。そして、いのちは心の中に住まうのだ」(大島かおり訳では「時間とはすなわち生活だからです」)。時間とは、いのちである。

 

いのちである時間、生きられる時間。別著で見田は、次のように述べているが、これはまさに、「生きられる時間」の別表現であるのではないだろうか。

「他者や自然との〈交歓〉という単純な祝福を感受する能力の獲得をとおして、〈現在〉の生が、意味に飢えた目を未来にさしむける必要もなく充実してある」(見田宗介現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』岩波現代新書、p,99)

 

時間を十全に生きるためには、我々は、ある種の能力、〈幸福感受能力〉を獲得せねばならないという指摘の意味は大きい(ペルー人にはおそらく不要なのかもしれないが)。そのことに関連して、「近代」において形成された、「時は金なり」という時間パラダイムの行き詰まりを越えて進んでいく現代において、近年ヨーガやマインドフルネスが、医療、福祉、ビジネスなどさまざまな領域で注目されている事実を、どのように位置づけることができるだろうか。あくまで、「時は金なり」のパラダイムの延長線上に、効率性を極化させ実現させる、健康管理・能力開発のための手段として、それらが利用される可能性も想定し得る。しかし、他方で、「他者や自然との〈交歓〉という単純な祝福を感受する能力の獲得をとおして、〈現在〉の生が、意味に飢えた目を未来にさしむける必要もなく充実してある」という方向へ、人々の実存を転換していく、生の具体的作法(様式)を教えるものであるようにも、わたしには思われる。そのような意味で、ヨーガやマインドフルネスは、幸福感受能力の獲得と言う、時代的なニーズや課題に相応して、発展しつつある、現代的な意味を担った勢力として位置付けることもできるのではないか。

 

時間が、計られると同時に、生きられるものとして認識されるようになるとき、社会はどのように変容を遂げて行くのだろうか。それは単に外的な社会的条件の変革であるばかりでなく、個人ひとりひとりの内的変革を伴うものでなくてはならない。というか、それ以外ではありえない。われわれはおそらく、そのさなかにある。