IOFI原理と鳥飛んで鳥の如し felt senseとfelt meaningの違い。

得丸さと子先生の、『ステップ式質的研究法 TAEの理論と応用』を読んでいます。

 

「TAE(Thinking At the Edge)は、うまく言葉にできないけれども重要だと感じられる身体感覚を、言語シンボルと相互作用させながら精緻化し、新しい意味と言語表現を生み出していく系統だった方法です。」(p.5)

 

このTAEの「使い方」の他、(TAEに関連する部分に絞ってではありますが)ジェンドリン哲学へのガイドとしても、わかりやすく、とても面白く読んでいます。

 

いまは詳しくは検討できないけれども、興味を惹いた所をいくつかピックアップしてメモしておきます。

 

「IOFI原理とは『それがそれ自身の実例である原理』です。どんな個も「そのようなもの」の一つの実例であるという意味です。「そのようなもの」としての「まとまり」の先にあるものが「普遍的なもの(X)」です」(p.16)

 

「人間にとっては、常に何でも、『何かのように』見え、聞こえており、パターン(シンボル)の背後には、常に「のようなもの」があります」(p.167)

 

道元の「鳥飛んで鳥のごとく、魚行きて魚に似たり」を思い出しました。「鳥飛んで…」はIOFI原理の実例を示す文だと考えるならば、理解することができる。個別的なその鳥は鳥の如きものであって、「鳥」の実例であり具体である。IOFI原理と、事事無礙というか華厳の四法界の関係は。……?

 

「本質」とは、「何であるか性」です。意識は何かをもたずに志向することはできない。意識の志向性は何かについての志向性であり、「何か」に向って行く。意識は本質をもたずにはいられない。だから「人間にとっては」(通常の意識にとっては)、何でも「何かのように」見え、聞こえる。これは、何であってもそれをそれとして指示する時すでにそれは本質規定的にそこにあるものとして志向されるということであり、対象は一般者に媒介されている、ということだとも言える。

 

いや、ジェンドリンが、「本質」とか「一般者(普遍)」とか「媒介」とか、既存の哲学用語を使わずにオリジナルな言葉で語っているところに、妙味があるのだから、さしあたっては余計な他からの持ち出しはせずに、そのまま読むべきか。

 

もうひとつだけメモ。

felt meaningと、felt senseは、同じと考えて良いと言われているが、違うのでないか。

 

ECMでは、体験過程とfelt meaningがほぼ同義に使われ、それはいつもそこにあると言われている箇所がある。「その塊自身は我々が”それがある”と言おうが言うまいが、いつでもそこに存在するものなのです」(『体験過程と意味の創造』p.34、ジェンドリン。筒井訳)

 

他方、フェルトセンスは通常、「ただそのまま存在しているわけではありません。それはかたちづくっていくべきものなのです」(『フォーカシング』p.29、ジェンドリン。村山他訳)。つまりフェルトセンスの形成には、直接に照合するというinnner actが必要。

 

だから、felt senseとは、直接に照合されたfelt meaningのことであると、意味的にはより特殊なものと解してはどうか。felt meaningに直接に照合し、形づくられるのが、felt senseである。そしてfelt meaningは直接に照合されなくとも日常的にいつもそこにあって、暗々裏に機能しているそれである、と。(いまは「…機能しているそれである」と「それ」として指示されるが、普段は「それ」としてすら指示されることなく機能し得、また時に「それ」として指示され得もする「それ」。)

 

うーん。ECMのp.34周辺以外のfelt meaningの用法も確認せねば。