フォーカシング-ジェンドリンからの恵み

「いまに全てを空け渡す」「自分を道端の小石のように、そこにおいておく」。

 

日常の様々な困難さの最中、例えば通勤までの電車の中で、こうした言葉が浮かび上がることがある。わたしはことばの持っている滋養が静かにからだに沁み行くのを確かめ、そのまま、それを味わう。

 

外的現実の何が変わるのでもない。従事しなければならない勤めは、そこにある。不安や恐れを抱いている私がそこにいる。しかし、そこにいると、それらの隙間からやがて柔らかく暖かい何かが現れる。それを招き、迎えるとき、祈りの内に感謝をささげるような気持ちが満ちてくる。

 

…わたしは何に感謝するのか。わたしは何にわたしを空け渡すのか。「何」の「何」かは知れぬ何か、あるいは「どこか」。「それ」は、我ならぬものであることは確かであるが、それに対して。…

 

さて、ユージン・ジェンドリンのFocusing(フォーカシング)から学んだこと(のひとつ)は、言葉を体験的に用いるということである。つまり、体験(正確には体験過程)に照らし観つつ言葉を用いる・あるいは言葉をからだの感じに響かせてきく(聞く・利く)ということである。

 

と言いながら、上の例が、正確に「フォーカシング」であると言っていいかどうかはよくわからない。今ここで眼を覚ましているという意味で「瞑想的」、あるいは、我を越えた何かへのdevotion(身を捧げている)という意味では「祈り」のようだ、と言ってもよいのだろうか。 

 

わたしにとってたしかなのは、「今にすべてを~」「自分を~」ということばがからだに明かな違いをもたらしたということ。そして、このようにからだの違いに常に照らすことを学んだのはフォーカシングからである、ということ。

 

これらのことばが明日役に立つかをわたしは知らない。もはや陳腐な間延びした言葉としか感じられず、からだは響応しないかもしれない。ジェンドリンは、フェルト・シフト(felt shift)は、「恩寵」(grace)だと言っている("Focusing",p.59)。それは操作の対象ではない。そうではあるが、あるとき、ある場所で、ある言葉が、わたしに新鮮な何かをもたらし、生の質を変えるという体験が存在する。そうした不思議への驚きの感受、喜びや感謝を、わたしはフォーカシングによって豊かにされているのである。