真夜中のパーティ

『真夜中のパーティ』を読んでいる。
フィリパ・ピアスによる短編集。
いわゆる「児童文学」であり、ことばも固くは無いので、読むのは大変ではない。しかし一気には、何故か読めない。一編一編、日を置いて読んでいる。

 

わたしは児童文学が好きで、エンデの『果てしない物語』『モモ』やル=グウィンの『ゲド戦記』といったファンタジー作品が特に好きである。(『果てしない物語』なんかは、おそらく10回くらいは読んでいる。読むたびに感銘を受けるところが変わる。そういう意味で読むたびに、別の本を読んでいるようでもある。)
同じ作者であるピアスの『トムは真夜中の庭で』もファンタジー的な要素(現実には存在しない庭に入り込む、という)があり、あの「庭」の情景を思い浮かべるだけで、胸がぎゅっとする。大好きな作品である。

 

さて、この本(『真夜中のパーティ』)には、「いわゆるファンタジー」的なところはない(少なくともこれまで読んだ4編には)。
父や母、きょうだい、川や木や、そこにすむ動物たちや、近隣にすむ人々。自然の情景、ごく普通の子どもの生活世界の豊かさ、そうした描写がとても心地よい。のどか、なごやか(牧歌的?)、とも言える日常性の中で起こるドラマが描かれている。

 

そのような意味で、「いわゆるファンタジー」のような超自然的なものは何も登場しない。例えば「竜」や「魔法」や「夢の中に入り込む」というようなことは。

 

にもかかわらず、この本は、通常の善悪(あるいは通常の合理性)を越えたものを垣間見せてくれる。それも実に淡々とした筆致で。それが、読後にとても不思議な感触を胸に残す。

 

この作品においては、ほんとうに何でもないふつうの人間の生活の中に「それ」が示されているのであって、ファンタジーの世界の中でではない。だからこそ、「それ」の意味がものすごく際立ってくるように思われる。

 

例えば、ダンの「これから起こそう」(p.94)としたこと。それを知っているから読者は、「礼なんかいうなよ」(p.99)という「何でもない」一言に、静かにゆさぶられる。

p.76のリッキーの流した涙も似ている。わたしも「どうして悲しくなって泣いたりしたのか、ふしぎに思」う。そして小さなリッキーの存在に奥行きを深々と感じ、ある種畏敬の念に打たれる。

「よごれディック」という存在もすごい。ディックがうらやましいと言えば母さんに起こられるし、ディックのお古の自転車を使っていればからかわれるだろうから、「ぼく」は使わない。でもぼくは本当にディックがうらやましいのだ!!

 

ダンの起こそうとしたこと。
リッキーの涙。
ディックという存在。 

これらすべては、日常の生活の最中にある。
そしてこれらは、ふしぎなゆらめきをもちながら、日常の意味世界(例えば、「動物虐待防止協会」とか)のなかでぼんやりと光り、そこから新鮮な意味をにじませる。この作品は「いわゆるファンタジー」ではない。にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、わたしはこの作品を読み、「いわばファンタジー的なもの」は、日常の中に実在する生きた力なのだと、そう思う。