問いであるかさえあやふやになる

わたしがいるということ。
それは、こうして世界が開けているということ。
端的なそうであるということ。そうなっているということ。

 

わたしはそれを何度も確かめている。

 

意識の真ん中に、なぜかこの肉体が存在し、そこから世界の体験は開かれている。

 

つまり、こうして、キーボードをタッチし、タッチの感触を確かめ、タイプのカタカタという音をきいているという体験。そして、パソコンの画面上に立ち現れた文字を読んでいるという体験。などなど。

 

そうした体験が「このとおり」開かれているということ。
このようにして体験が開かれていることそのものが、「与えられている」ことを、不思議に感じる。それはいわゆる、生きている、という当たり前の事実であるが。

 

「なぜ、このようになっているのか??」

 

わたしがいるということは、
「『そのとおり』すなわち『だ(である)』」。
「わたし」=「『そのとおり』=『だ(である)』」である。

 

別の言い方をするならば、
「私」=「如(是)」=「現(前)」。
つまり、「私」="suchness"="present"ということ。
云々。

 

…しかし、これは「なぜこのようになっているのか??」の答えではない。「”このよう”とはどのようか?」に対する少しばかりの記述の試みでしかない。

 

わたしが問うているのは、「私=如是=現前」が、「現にかくの如く、つまりわたしとして」成立しているのは、いったいなぜなのか?? という問いだから。しかし、この問いはそもそも問いですらあるのだろうか。一体何が与えられれば、答えられたことになる問いであるのかさえ、定かでないのに。