久々に池田晶子さんを読んで

無は無なるが故に無い。
つまり存在のみ存在する。

 

無は無いと知ることによって、端的に現に存在が存在しているというそのことを知る。

 

しかしそれは、存在が存在するという同語反復に過ぎない。

「このようになっているということは、このようになっているように、このようである」

とは、一体何を言っているのか。

それは、

「このようになっていない、ということはなく、このようになっているようにこのようになっているもののみがこのようになっている」

ということであるが、このような文は冗長な繰り返しに過ぎず、

論理的には何も規定していない。

AはAであるようにAである、と自同性を言明しても、論理的な情報としては、何も新たに伝達しない。


だから、

 

ないはないのだから、あるのみがある、あるのみが、真に実である

 

そうなっていないことはそうなっていないゆえにそうなっていない、それゆえにそうなっていることのみがそうなっている


云々という空虚な論理の言葉は、
詩の言葉として味わわれるべきであって、
それらが真に表現しているのは、
思惟が、論理という道を通り、論理がナンセンスと化すぎりぎりの際に触れ感じ得る、
神秘の気配、驚きと嘆息。