書くことは玉石の結露。

文章を書くとは、いまだ言葉にならざる何かを、系統だち整った形へと仕立てる作業である。以前は、はっきりせず、つかみどころのなかったとある感覚が、カタチあるものへと精錬・形成され、言葉の表現へともたらされたならば、その過程において理解は滑らかになり、かつ産出された明晰な文を読むとき、得られた理解を再び確かめつつ、その理解は淀みなく滑らかに流れていく。

 

また、滑らかに理解される文は、あたかも玉石のように持ち運ぶことができる。何かのエッセンスを凝縮された形で言い表す言葉は、懐に入れた玉石のように、繰り返し取り出し、ながめ、ふれ、吟味して、また大事に保存しておくことができる。複雑な意味もなめらかに理解されるようよく整理されているならば、コンパクトな玉石に内蔵しておける。

 

そのような「玉石の持ち運び」が可能となるのは、明確な意味へと表現し行く過程において、はっきりしなかった何かが、焦点を結び、凝縮し、緊密になり、より確かなあるものへと生成することによって、である。はっきりしないあやふやな空気の塊は、手でつかむこともできず、たやすく見失われる。しかし、ひとたび玉石へ結露したならば、それは手に触れ、持ち、運ぶことができるのである。

 

わたしにとって、書くことの喜びは、まとまりを欠き、漠とした空気の塊を、より確かで価値ある何かへと形成し得るところにある。またそれによって、像を結んだ何かに、しっかり触れ、味わうことのできることにある。そしてそれによってさらにその先へと進んでいけることにある。