得丸さと子先生『TAEによる文章表現ワークブック』と倫理的な言葉。「クリームのひかりをはなつ軟膏」

『TAEによる文章表現ワークブック』

TAEによる文章表現ワークブック―エッセイ、自己PR、小論文、研究レポート…、人に伝わる自分の言葉をつかむ25ステップ

TAEによる文章表現ワークブック―エッセイ、自己PR、小論文、研究レポート…、人に伝わる自分の言葉をつかむ25ステップ

 

ジェンドリンらの、TAE(Thinking At The Edge)と文章表現を、やさしく段階的に学べるワークブックです。「感じ・考える」そして「書き・交わす」。

ひとりでフォーカシングしても、あまりからだの感じがかわらなかったり、途中で注意散漫になることも多いのですが(だから聴き手がいないならフォーカシングせずに、瞑想の方がいいやと思うことが多いのですが)、ワークのフォーマットに従うことで、いつものひとりフォーカシングとは違って、実りを得ることができました。

文章表現のため、学問的・知的活動のため、というだけでなく、ひとりで生活上のあれこれの気がかりを日常的にフォーカシングする際のツールとしても役立ってくれそうです。

さて、今日のからだのあまり心地の良くない感覚にフォーカスして、この本のワークの一つ(「マイセンテンスを詩にしよう」)を使って、書いたものが以下です。

 

傷ついた犬

わたしは、犬。

悔い、恥じて目を伏せる。

わたしはもはや自由で無邪気にしてはならない。

飼い主たちはわたしを取り囲み、返事を要求する。

逃げ場は無い。隠れ場もない。

わたしは弱く、闘うこともできない。またそうしてもならない。

ただ、蹴られ、殴られ、虐げられることを恐れて、おどおどと懇願するように小さく身を縮めることができるだけ。

小さく丸めた体の奥へと、せめてわたしはわたしを隠す。

自分で作った自分の中の「穴」に自分を吸いこませて。

わたしは、目を伏せ、唇をしっかりむすんで、泣く。

ひりひりするからだは氷のように固まって、涙も声も無く、泣く。

(…)

「だいじょうぶだよ
がんばったよ
だいじょうぶだよ」

(…)

ことばは、てあて。てあては、ぬくもりを伝える。
だから、それはクリームのひかりをはなつ軟膏のように、
傷をやさしく、やわらかくつつんで、じんわり沁みとおる。

(…)

「だいじょうぶだよ

がんばったよ

だいじょうぶだよ」

 

 

プロセスの振り返り

ちなみに、この詩(?)を書いた時のプロセスを振り返ると、前半部の「ひりひりするからだは氷のように固まって、涙も声も無く、泣く。」までを書いた段階で、いったんまとめて見返して見ると(reflect)、「おぉこれは思いがけず悲惨なものができてしまった!!」という感想と共に、自分の中に、「だいじょうぶだよ」の「クリームの光」が「犬」を包んでくれる余地が生じてきました。そして以下の後半部は、その「だいじょうぶ」の感じに焦点をあてて、もう一週ワークを行う中から生れてきた表現ということになります。

 

 

プロセス・エシックス 生を前に進めてくれるコトバ

ところで、

「目的が内面的成長ですから、このテキストでの「よい文章」とは、「書いた人が内面的成長に向う文章」です。」(p.5)

とありますが、この言葉からは、『ジェンドリン哲学入門』の第4章、プロセスエシックスの件を想起しました。

「問題は、言葉の内容(が道徳的かどうか)ではなく、その用いられ方である。ある言葉が人間の体験流を推進させるならばそれは(内容の如何にかかわらず)倫理的であるし、そうでないならばそれは非倫理的な使われ方をしていることになる、体験流を推進させるような仕方で使われる言葉が価値ある言葉なのである。」(p.186)

 

そうすると、上の「傷ついた犬」という作品は、(程度はさておき)「よい文章」であり「倫理的」であったことになります。(特に、「クリームのひかりをはなつ軟膏」とつぶやいてみることは、とても「倫理的」なコトバの使い方! 目で見るなら「光」より「ひかり」の方がよりよい感じがする)

 

また、そうであるならば、得丸先生の本は、より確かに「倫理的」である、と言えるはずです。得丸先生のワークブックに書かれた言葉を通して(ワークを行ったことで)、わたしの生(experiencing、体験過程。上の諸富先生訳では体験流)は推進したから。

(…と書いたこの文章全体も、誰かがご自身の体験過程を推進することに役立ちますよう)

ジェンドリン哲学入門―フォーカシングの根底にあるもの

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