内的な沈黙

音声として言葉を外に発さない時でも、こころのなかに、想念を巡らせているなら、内面的には沈黙してはいない。電車に揺られ、見知らぬ他者の間にいて、口を閉ざしていても、悩みや不満に囚われている時、心の中には、様々なイメージや、言葉が去来している。いわゆる「内言」。ひとり黙っていても、内的には様々なことを自己に語り、思いを巡らせ得る。それは、自覚的にも、無自覚的にも起こる日常の事実である。真に黙っていることはきわめて少ない。まずはその事実に気づくことから始まる。

 

ただ、音声を発することなく「黙っている」という、通常の意味での沈黙を外的な沈黙とするなら、「内的な沈黙」とでも呼ぶべき実存の様態がある。その時、人は想念を心によぎらせることがない。自らが自らに語ることをやめる。心に像を作り浮かべることをやめる。

 

さて、他者に心から耳を傾けるには、内的な沈黙を要する。
内的に沈黙していない時、他者がそこにいることを感じることは困難である。例えとなりに人がいて、私に語りかけてきていても、わたしがわたしの想念にとらわれ、巻き込まれ、気もそぞろであるならば、他者の言葉や存在は、わたしの中に入ってこない。入って来ても、しっかりとそれは感じられていない。

 

他者と共にいる「そこ」にしっかりおり、他者に耳を傾けるためには、内的な沈黙を要する。内的に沈黙するその時、他者の存在に真に触れうる空間(「ここ」として直指され得るたったいまの「そこ」。それとわたしの存在は別ではありえない)が開かれるからである。