わたしが無的な包摂である場所にいる

自分が前ノートに書きつけた言葉に救われた。


「無的に包摂するとは、自由ならしめる空間をつくること。
 ここでは、包み込むことが、解放することである。

 

 私が無的に包摂するのではない
 私が無的な包摂であるのだ

 

 現在に全てを空け渡そう
 私を一粒の小石の如くそこにおいておこう」

 

…この言葉を誰かが読んでくれたとして、その方が理解してくれると期待してはいけないだろう。語の用法が私的すぎるから。その意味を改めて解説することすら困難である。例えば、「私」の語で言われているものは、二種類あるのだが、その意味を分節し、言葉で語ることができたなら、哲学になるのかもしれない。あるいは詩になるのか。自分にとっては、これと直接触れられるように思われることが、公共的には通用しない。

 

しかし、この言葉が、自分には「効く」。「私が無的な包摂である」。これの示すところに「いる」(「ある」)と、事実、不安感のようなからだのもやもやが私から解けていく。この言葉は、この言葉が出てきた体験を、ある意味で、喚起するのである。体験から出た言葉が、もとの体験を喚起してくれる(有難いことに!)。

 

今は「わたしが無的な包摂である場所にいる」という言い方が、しっくりくる。

 

「わたしが無的な包摂である場所にいる」。

 

アクセプタンス&コミットメントセラピーの言い方を借用すると、これは「観察者としての自己」(「文脈としての自己」)でいる、という説明の付け方も可能ではある。なんだか、意味が取りこぼされてしまう気もするが。しかしそう説明するならば、この言葉を思い出し、味わうことは、ある種の「マインドフルネス・トレーニング」であるということになるだろう。それは、純粋に「いま・ここ」と接触すること、というよりむしろ、「いま・ここ」に「なる」ということ、「いま・ここ」で「わたしはある」ということ。それに等しい。