言うということ

自分の中にあるものを殺していたことが、いかに膨大であるか今さらながら気づきはじめている。

 

胸の中で押し殺してきた無数の声。例えば人の集りの場面で、感じていること。それを言うと場違いになるとか、他者と違う意見を表明することの恐れのようなもので殺して来たけれど、本当は生きたかったものたち。

 

生かしてあげてもいいのではないだろうか。これ以上自分を死なせたくない。

 

ちょっと大げさに言うと、あるきっかけでそのように思って、そういったことをこれまでより積極的に話して見るという、ある種実験的な一週間だった。言ってみる、外に出すというのは、状況に自己を投与する、そこに前向きに関与するということ。何も言わないことも、状況への関与の仕方の一様態ではあって、計らずとも他者へ影響を与えざるを得ないけれど、言って見ることでわかったのは、それによって他者との触れ合いの感触をより確かに感じられるということ。

 

殺していたものが、生きるようになったのだから、それは楽しい一面もある。
感じたことを信頼してその通りいってみるということ。何だか生き生きとしている感じがするし、周囲との関係性も少し変わってきた感じもする。その状況を生きている、という感じ。悪くない。いやよかったのではないか、という総じての評価。

 

では、うまく行く事ばかりでそれがすべてかというと、そうでもない。
言って後悔するという新しい体験をしている。これまでは、言わずに鬱積させ、よどみをからだの中に生み出していたものではあるが、それとはまた少し違う。あぁ、うかつなことを言ってしまった、という後悔。他者の受け取りを恐れて、表現しないことを辞めたが、いざ言ってみて言ってしまった事への後悔が生じてくる。

 

いや、これは、正確に言うと、言ってみたけど、言いたいことでないことを言ってしまったというか。本当に伝えたかったことを言えなかった感覚。言った事をどう受け取られるか、という以前に、そもそも自分が言いたかったことを満足に自分で言えていない、ということが何だか悔しい感じがする。満足に言えた結果、相手に本意でない受け取りをされるのならまだしも、そもそも満足に言えていない、という悔しさ。

 

そう、だからこれは言ってしまった事の後悔というより、言いはしたが、それは本当に言いたいことではなかったという後悔だ。本当に言いたいことが、言いきれなかった。すごくぎこちない。思いをその場で言葉に形づくるということが。どう練習して行けばいいのかな。幸いにして日常の場面で機会は多く与えられている。

 

ところで、話すことによって得られる、その場その状況、他者との触れ合いの感覚、接触の感覚、手ごたえ。ある意味で、思いを言うというのは、その瞬間の自分を他者にさらけ出すということだ。だから、思いを言うということは、状況や他者への生身の関与なのだと言える。そして、人は関与によって、現実の手ごたえを得るものであるとするならば、関与の質の変化によって、現実の手ごたえの質も変わってくるはずではないか。思いを他者に正確に言えるようになったとき、わたしにとっての現実はどのようなものとして実感されてくるのだろう。