彼の業は、わたしたちの内に生きる

ジェンドリンさん(Eugen T. Gendlin)の訃報に関する情報をtwitter上で目にした。また、参加したフォーカシングのコミュニティでも、当然話題にのぼった。

 

極端に言うと、わたしにとって、これまでジェンドリンさんのことは、歴史上に実在する生身の人間と言うより、海の向こうにいる(いた)と聞く伝説的な人物のように感じていた。だから、その存在を書物を通して精神的な次元で感じていただけだったという意味では、イエスやソクラテスの存在を感じることと大差無かったと言える。しかし逆説的だが、今回の訃報を以てはじめて、彼の人の肉体性と、同時代を共有させていただいていたという事実に実感が伴ってきた心地がする。(なので「ジェンドリン」と呼び捨てにするのも気が引けてくる。イエス「さん」、ソクラテス「さん」と言わないのは彼らが遠い伝説上の人物だから。でもやはり偉大な人物だからかえって「さん」をつけるのも何だか…。と呼び方一つとっても落ちつきが悪い)

 

さて、最近読んでいた、ジェンドリン(さん)の『The conception of congruence reformulated in terms of experiencing』(https://www.focusing.org/gendlin/docs/gol_2077.html)のセンテンスと、彼の死が重なり、いくつかの問いが生れた(無料で素人の一般市民でもこのような文書を読めるのは、本当にありがたいと思う。以下の引用は、この論文からの引用と抄訳)。「人が死ぬとは、どのようなことなのだろう」「そもそも誰かが誰かとして生きているとはどのようなことなのだろう」。死によって喚起されるこうした素朴な問いの深まりは、生の経験の深まりでもある。が、いまは、問いに答えを出そうとするより、生と死の謎の感覚を味わっていたい気持ちがしている。問いが生れたと言ったが、謎へと感受が開かれたと言う方が正確か。

 

以下で、いくつかのセンテンスを読んでいく。こうして読むと文章はロジカルで堅いが、含蓄は深く、豊かに味わうことができることに気づく。読書と言う世界との相互作用の体験を通して、理解やイメージや連想が生れる。生れてきたものをやわらかく織り交ぜつつ、その体験を言葉にしていきたい。

 

曰く、

 

"The living body inter-acts with environmental events which thereby become part of the dynamic organization we call "organism.""(「生体は、環境的な出来事と相互-作用する。その環境的出来事はそれによって、我々が「有機体」と呼んでいる、動的な組織だての一部となって行く。」)


麦は育ち、刈られ、パンとして焼かれる。食べることで、そのパンはわたしのからだの一部となり、のみならず、麦は暗に私の内に生き、働く。ジェンドリンの死という環境的な出来事も、それとの相互作用を通して(例えばこのように文章にすることによって象徴化され)、わたしの有機体の一部となって行く。

 

"It includes interactions organized by past biological and symbolic conditioning which now function in an organized dynamic tending toward further events. "(「それ(feeling)は、過去の生物学的・象徴的条件付けによって組織化された相互作用を含んでおり、またその過去の生物学的・象徴的条件付けは、さらなる出来事へと向かっていく組織だてられた力動的前傾の内に、いま、機能している。」)

 

おぉ、「過去の生物学的・象徴的条件付け」を内に機能させつつ「さらなる出来事へと向かっていく、組織だてられた力動的前傾」とは、わたしたちの生そのものでないか。わたしは、わたしを取り巻く世界と出会い――つまりパンや、語り合った人、読んだ書物を「食べ」――、自らのからだとする。そうしてわたしはさらなる出来事へ向かって前傾しているが、過去の出会いと関わりは、わたしの内にいま、生きている。

 

だから、いま、わたしたちは、この筆者(ジェンドリン)を「食べ」た。筆者はわたしたちのからだの一部となり、のみならず明に暗に生き、働き(functioning)、わたしたちを生かす。控えめに言っても、こうなるだろう。「この筆者のactionは、わたしたちの内に生き続ける。ジェンドリンの業(わざ)は、このからだの内に明に暗に生きて働き、今なお、前へと生きることを手助けしてくれている」。

 

actionは業karmaと同義と言う(鈴木大拙『一禅者の思索』参照)が、「業」という言葉から仏教的なコスモロジーが連想されてもくる。

 

 さて、もし仮に、輪廻転生とはこのことを言うのだとしたら、何ら特別なことではないはずだ。
わたしの生の流れに、過ぎ去ったはずの世界の誰かや何かとの出会いと関わりが、今なお生きていること。
これは一生活者の生活実感に過ぎない。ただ、日常当たり前の経験をよく見詰める者は深さを発見するというだけだろう。その認識は、畏怖や敬意や感謝を喚起する。ジェンドリンのような偉大な人物ばかりでない。無名の数限りない人々の貢献が、暗に、わたしたちに生き、わたしたちを生かしているからである。

 

 

※参考。二つ目の引用文の前後。
「有機体のプロセスとして体験過程を定義するなら、我々はある瞬間の体験過程を、有機体のプロセスの複雑な組織だてを包含するものとして見ることができる。ある瞬間の有機体のプロセスは、「あるいっこの体験」(an experience)ではない。それはいつも体験過程、すなわち、数多の出来事の複雑で動的な関係性を包含するプロセスなのである。主観的にはまた、ある瞬間の感じ(feeling)は、暗に非常に多くの過去や未来や外的出来事の関係性を含んでいる。感じは、空間における事物、のようではない。感じは、組織立てられた動的関係性のプロセスとして定義する方がよいだろう。それは、過去の生物学的・象徴的条件付けによって組織だてられた相互作用を含んでおり、また、その過去の生物学的・象徴的条件付けは、さらなる出来事へと向かっていく、組織だてられた力動的前傾(organized dynamic tending toward)の内に、いま、機能している。それ故に、ある瞬間の主観的に感じられた体験過程は、数多のパターン、態度、関係性、含意、アイディア、そして情動として分化し得るのであり、そうでありながらも他方、瞬間的に感じられる主観的な一なる照合体(referent)でもあり得る。」