河合隼雄『明恵 夢を生きる』 こころの撹拌

河合隼雄先生の、『明恵 夢を生きる』を読んでいる。

 

読むという行為を通して、心が撹拌(かくはん)されていると言ったらよいだろうか。読書体験が作用して、ごよごよと心がうごめいているようだ。一体このこころは、何を生み出し、何をもとめ、結局何処へ動いて行くのだろう。読むことが深く作用し、心身が静かに、しかし大きく得体の知れない力でうごめきだすという体験は、クレイグの『結婚の深層』を読んだときにも、起こったことである。確か、この本の前書きか何処かで推薦者が「この本は心理療法的である」と書いていたように記憶しているが、読むという体験を通し、人間が変容を遂げることを、あるいはその人間の全存在が(と言って極端であれば、深いレベルからその人の存在が)創造的にうごめき立つことを、心理療法的という言葉で言っているのであれば、この河合先生の『明恵』もわたしにとっては、心理療法的であると言える。

 

クレイグを読んだ当時、夢に鉛色にうねる海を見、箱庭でも同様の海を臨む風景を作ったのだった。今回『明恵』を読み始めてから三日。連続して夢を記憶している。このような事はしばらくなかった。夢を一日でもはっきり記憶していることすら無かった。河合先生の『明恵』が読者(わたし)の心を内海(内界と打とうとして、このようにコンピュータに変換された。面白いのでそのままにしておく)のイメージへの注視へと向かわせている影響は明らかだ。

 

しかし、人間の存在がこのような仕方で変容を遂げるというのは、必ずしも心地よいものでないと感じる。フォーカシングであれば、新しい気づきがもたらされるとき、気づきの内容が認めるにうれしい内容でなかったとしても(「わたしは父親をずっと憎んでいた」)、身体的な解放感をもたらす(フェルト・シフト)。今体験していることは、日常と異なる体験の水準へと潜り浸り、何者かの不可思議な体感に、じわじわと身が浸透されているような感じであって、解放性や心地よさとは異なっている。単に形式的でない、冥く、熱を帯び、生々しい迫力を伴った宗教的な儀式に参加している時のような(と言っても実際参加したことは無いので想像にすぎないが)、何かの気配と蠢きと躍動を感じるような、雰囲気。非日常性に浸されているような心地。ここでは雰囲気と心地は区別がつかず、一体だ。そのような心地を引きずりつつある中でも、日常の仕事を初めとする一般の社会活動には参加しているのではあるが…。

 

このような、一般社会の道徳・規範・常識を超え出して、ある種狂気と隣接するような領域に、これほど惹きつけられながら、昼間何食わぬ顔をして、人と会っていることに、奇妙な感じを覚えもする。わたしは人間なのだろうか、ここは人間が住む人間の世界なのだろうか、といった突飛な思考すら浮かんでくる。深い水準の定かならぬ領域に知らず引きずり込まれたような感じがする。暗く未知なるものの律動への心の開けと同時に、理知的な明晰性あるいは言語的裁断性、そして深く感動しながらも非陶酔・非埋没的な透明で注意ぶかい観察眼を兼ね備えていなくてはならないのだろう。

 

 

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)