思考について垂れ流す思考(5)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

思考空間あるいは内言空間とでも言うべき所に言葉が生れている。
こころの中で、つぶやきが生れている。
このつぶやきは、いったい、どうして生れるのだろう。

どこから、思考はやってくるのか。あぁ、不思議だ。
箱の中から玉が取り出されるように、言葉も、どこか心の奥底から、取りだされてくるのだろうか。あらかじめ存在していた言葉が、とりだされてくるということなのだろうか。いや、そんなはずがない、と言いたくなる。言葉は、思考される前までは存在しなかったはずだ。言葉は、つむがれて初めて存在するようになったはずだ、そういいたくなる。

なにも無いと言う所から、なにかが生れるとは、どういうことなのだろう。問うておきながら、自らが何を問おうとしているのか、まだ明確ではない。こうして思考しているうちに明確になって行くことを期待するが…。
布を織る時、糸という材料がある。糸を紡ぐ時、毛と言う材料がある。いわゆるモノの場合、こうして、科学的なレベルまで、材料をたどっていけるはずである。が、思考は。思考はどうやって生れたのか。思考は、思考である。言葉の材料は、単語へと分解はしていけるが。たしかに単語を組み立て、単語を材料として思考が出来上がっているとも言えるが。そういうことを、問いたいのではない。思考を構成する要素を明かにしたいのではない。目の前にある、この紙の構成する元素が何であるかを明かにするように、思考を構成する要素を明かにしたいのではない。むしろ、目の前にあるこの紙の形が、いま見えているのは、どういうことか、という問いにどちらかと言うと近い。今ここに紙が、見えている、そのことに気づいている。それと同じように、思考・内言空間に言葉が生れている、そのことに気づいている。これはどういうことなのか。つぶやきが生れ、消え、つぶやきが生れ、消え。

これは、体を伸ばしては、ちぢみ、伸ばしては、ちぢみ、というなにか運動に伴う身体感覚の生滅とも共通するような事象である。思考が現れるとは。思考つまり、内言空間によぎる言葉のつぶやき(あるいは、語りか、叫びの場合もあろうが)は、いわゆる五感的対象として存在していない。それは、直接的に、感知される意味である。例えば、「犬は一般に四本脚をもつ」。こう考えるとき、五感的対象としてではなく、いわゆる「イメージ」として、犬のイメージがあらわれることもあるが、それは、「犬は一般に四本脚をもつ」という思考とは別物である。視覚的イメージによって、「一般に」は表現できないから。

イメージには、五感的様々なイメージがあり得る。視覚的なイメージはもちろん、聴覚的なイメージ、触覚的イメージ、嗅覚的イメージ、味覚的イメージ。
わたしの経験する世界には、五感の空間だけでなく、思考やイメージがあらわれる空間が存在する。わたしはその両方を生きている。

イメージや、思考は、意識的に必ずしも統制されない。
夢がその端的な例であるが、日中でも、「おもわず」考え事をしてしまったり、過去の記憶にとらわれていらいらすることは、日常茶飯である。こうしたとき、考えよう、思いだそう、イメージしよう、と意志されてそれがなされているわけではない。
それは、わたしがしていることではあるが、わたしが統制して意志的に行っているわけではない。

意志的に統制しつつ行うこと、意志的に統制しないで行われること。これらにはどのような違いがあるのか。

意志的に行っているとき、その過程について、十分気づいている。意志的に統制的であることと、意識的であることが、重なってくる。意識的であることなく、意識的に統制的であることは不可能である。逆に、意識的であることすなわち、意志的に統制的であるのだろうか。これはそうとは言えないように思われる。呼吸していることに意識的であっても、呼吸をかならずしても統制しようとはしていない場合もあるから。

 

思考は、どうやって生れるのか。
答えることはできていない。
これは、どうしてじぶんの身体は(或程度思う通り)動かせるのか、という問いと同じでないか。