尋常でない本。井筒俊彦『意識と本質』

 

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 

 

「三年前の夏、スイスのエラノス学会の食卓で、D・ラウフ教授が、熱っぽい口調で、私の耳に吹き込むように言った言葉を、私は時々憶い出す。「我々西洋人は、今や、東洋の叡智を、内側から把握しなければならないんです。まったく新しい『知』への展開可能性がそこに秘められているんですからね」と。(…)西洋人を俟つまでもなく、先ず我々東洋人自身が、己れの哲学的伝統を内側から、主体的実存的に了解しなおす努力をしなければならないのではなかろうかと、その言葉を聞きながら私は考えていた」
井筒俊彦『意識と本質』後記より

 

ここで言われる「東洋の叡智」、我々にとってみれば、「己の哲学的伝統」が、本書の全体を通して「意識と本質」を主題に、説き起こされているわけであるが…

 

「本質」とは「なんであるか性」。例えば、花を見るとき、意識は花についての意識であり、そのとき見ているそれは花である。通常の我々の意識における経験は、本質的に(なんであるか的に)分節されつくしている。これは花である。これは虫である。これは土である。これは手である。等々。
その、なんであるか性、すなわち本質が、いったいどんな存在身分を持つものであるか。本書では、たとえばこのような問いにまつわる古今の思想たちが、その思想を語る実存的境位――あるいは意識のレベル――と共に語られ、類型・構造化されていく。

 

単なる思想史の文献学的な研究に基づく羅列ではない。
実存的境位、と先ほど言った。
それは直に生きられる体験的事実である。日常とは異なる意識の経験(それが日常へと帰還するものであったとしても)が、生々しく、事例豊かに、叙述される。その意味は、真に経験した人間でなければわからない事柄であるのだろう。蜜をなめたことのない人間に蜜の味を教えることはできないように。しかし、たかが見聞であったとしても、存在-意識の恐るべき神秘に、心を動かされずにはいられない。

 

「己れの哲学的伝統を内側から、主体的実存的に了解しなおす努力をしなければならない」

 

これが尋常なことではないことは、本書の叙述を読めば嫌でもわかる。

このような尋常でないことが書かれている本が、平気な顔をして、街の本屋の棚に並んでいるのは、異様なことだとすら、感じる。

おそらくそれは、自ら道を歩むこと、道を求め、修めること…を意味する。哲学者…知を愛する者。というより、学道の人。