思考について垂れ流す思考(4)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

 

考えるとはどういうことか、という当初の問いについては、或程度は明らかにすることができたろうか。

これまでの成果は、「当初未だ言いあらわされず、その意味が十分に明示的には表現されてはいない何かについて、言語的に展開し叙述する、つまり意味を固定して行くプロセスである。そのプロセスは、意識的に(気づきの内に)行われるので、そのプロセス自体をも言語的に明示し、叙述することが可能である」というようなもの。

 

思考には、思考を対象とする思考と、思考以外のものを対象とする思考がある。前回はレンギョウの例を盛り込んで、思考の定義を拡張して行ったが、なんだか混乱していた。思考についての思考にも、「あ。」に対応するものがあるのだろうか。レンギョウを見る、ということのように、不明瞭な意味凝縮体が徐々に分節するという事態とはまた別ではないのだろうか。思考すること一般についてではなく、思考について思考することに立ち戻ってもういちど考えたい。


もういっかい、前回の最初のところまで出戻りする。

思考が起るとはどういうことなのだろうか。…と今考えているこのことが、思考が起ると言うことである。ということは、思考がおこるとはどういうことか、と思考について思考している思考の発生について明かにできれば、思考についての思考、についての発生について明かにできるはずだ。

うん、明かなのは、そこに言葉が生れることだ。このように、文字として現すだけでなく、黙考している状態であっても。言葉が生れている。黙考状態で生れる言葉を、内言とか言うこともあるが、いわば、思考空間に、言葉がよぎる。そして、そのような言葉が生れ、よぎることを、観てもいる。あ、今、このような考えが浮かんでいる、動いている、というように。「あれ、わからなくなった」いま、そういう状態。「いま、そういう状態」というのは、「言葉が生れ、よぎることを、観てもいる」ことの例示になっている。「例示になっている」というのは、この一連の文章、つまり思考過程の解説になっている。「解説になっている」ということ自体が、また解説になっている。解説になっている、と叙述している。叙述していると、説明している…。

ここから何がわかるだろうか。いま立ち止まって、考えている。やはり、思考は、運動である。動きつつ、観、動きつつ、観。観るのは自分である。自分を観つつ動く。そうして動いて行っている。吟味しつつ進展する。ただ、進展するのではない。振り返りながら進展して行く。リフレクション、反省という言葉もあるが、まさにそれ。それ(自分と言う運動)について言い、言うということが、それになる、そのような運動。言われた内容についても観、「言う」こと自体についても、観ている。

「何か、言語を産出している。」。…という言葉が来た。これは、今自分がしているその営みについて、言っている。何か、言語を産出している。起こっているのは、そうだ。言語の産出が起っている。言語の産出が起っているという言語の産出が起こっている。

なぜ、起こるのだろう。その言葉が来た。
その言葉はどこから起こるのだろう、とも来た。
言語の発生現場を観ようとしている自分がいる。
自分がいるとはどういうことか。

いつも、言葉がよぎっているわけではない。つまり、いつも思考しているわけではない。そうだ。

何か、ある。何か、言葉として、現れていないが、何か、ある。もういちど。まだ、明かになっていない、何かがあった気がする。その何かがあらわれるのを、もう一度見たい。待って見よう。…。ああ! 「待ってみようとしている」そう、言葉として表わされる、言葉がよぎる前に、待っている状態がある!! 待っている状態について、言葉が発生する。本当か? 本当かと言う疑いの言葉と、疑いの状態は、ほぼ同時に今起こっていたが。

状態を観る、ということが起っている。そして、状態として、観るに特化して居たり、疑っていたり、言葉の波そのものに乗って、今のように字を打ちつつ観ることになっていたりしている。注意がある場所にあったり、別の場所にあったり、動いている。動いているのは何か? 注意が。しかし、注意はそこに何か判断を伴っている注意である。注意と言うのは、何かについて焦点を合わせて観る動き、そこに言葉が伴ってくる。

 

いま、見失った。何かを観ようとしていたのだが。それを失ってしまった。
この観ると言うことは、身体感覚のように感じられる感情的なものに焦点を合わせることもでき、時計の針の音に注意を合わせることもでき、指のタイプの動きに注意を合わせることもでき、タイプしている意味内容に、つまり思考の内容に注意を合わせることもできる。注意を合わせるとは、それにそわせる、現在を共にするような感じだ。

 

この、観るということと、思考することとはどう関係しているのだろう。思考すること、つまり問題にしている、思考について思考すると言う自己言及的な思考と。

思考している。そう、思考している。思考している、という思考を、観ている、だから、思考している、そう、思考している、ということができる。思考していることを観ていなければ、思考について思考することはできないのでないか。
もしかすると、と今思考空間をよぎった思考がある。何かを観ているから、一般に思考することができるのでないか、という考え。

 

時計の音を観ている。だから、時計の音について、叙述することができる。時計の音、交互に、大小の大きさだ。チク、タク、チク、タク、と。これは純粋な感覚ではない。純粋な感覚としては、チクの時にはタクは聞こえず、タクの時にはチクは聞こえない。音の大小を叙述できるのは、これ、鳴っていない音をなっている音と比べるようなことができていることになる。耳にはなっていない音がなっている。どこか、余韻のようになっている。そのような事実があるのだから、しかたない。ふたつを直観的に識別し、大きい、とが高い、と叙述している。

 

イライラしている。音が、あるということ、きこえていない音があるということについて、焦点を合わせようとして、うまく合わせられないから、いらいらしてきた。イライラに焦点を合わせて行くことができる。背中が痛い。そういう身体感覚にも。そこに焦点を合わせると、それについて言うことができる。それについて焦点を合わせることなく、言うことができるだろうか。言うことと、それが焦点になっていることとが、ほぼ同時で、どちらが先かがわからないくらいであっても、何かを言うためには、何かが明かに観られていなければならない。

思考について思考する時、つまり思考について言う時は、したがって、思考を観ていることに必然的になる。

 

思考の動きだし、を止めることができそうだ。言葉が明示化される運動が芽を出すそのとき、止める。そうすれば、思考は止むときもあるが、一瞬のひらめきのように、何かについて言う言葉があらわれる。それは、身体感覚についてであれ、言葉についての言葉であれ。

 

思考について思考する時、起こっているのは、このようなことである。
すなわち、思考空間とでも呼べるところに言葉がよぎる。よぎるのを観ている。よぎっていることについて、何か言う言葉が思考空間によぎる。よぎるところを観ている。思考空間に言葉がよぎることをさらに言う言葉がよぎる。

上で、思考を対象する思考と、それ以外を対象とする思考と、分けたが、どうだろう、一般化することができるだろうか。つまり、思考とは、観ている何かXについて、思考空間を言葉がよぎることである。

 

この問いに答えるためには、「思考以外を対象とする思考」をするとき、どのようなことが起っているか、観て行かなければならない。

 

いや、そんなことを、ぼくは知りたいのか? ちがう。言葉がよぎる、というこの体験的事実について、もっと明瞭に見定めたいのである。言葉は、どこから生れるのか??

たったいま、こうして、この現場で、言葉が生れている。言葉が紡がれている。紡がれているという動詞をいま、選んだ。選んだ、と紡いだ。そうして言葉が生れている。これはどこから、どうやって??? 「どうやって??」がまさしく問いであり、思考の初動であるならば、問いとは、言葉による明示化を希求する注意である。注意とは、ある場所に観入ることである。