思考について垂れ流す思考(3)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

前回の続き。
"「思考」が「起る」というのは、どういうことなのか。また、問いが生れた。何でこんな問いが生れたのか。この問いが生れた、ということが、まさに「思考が起る」というそのことなのだから、それについて叙述して行けばその答えになるであろう。"
という所まで来ていた。


明かなのは、そこに言葉が生れると言うことだ。
このように、文字として表すことだけでなく、だまっていても、そこに言葉が現れている。いわゆる、黙考という状態のとき。言葉は、何かを指している。例えば今なら、「言葉は何かを指している」という言葉は、「言葉は何かを指している」という事態を指している。そのように、考えるとき、そこにそのような事態が起きていると、理解されたことになる。

「何かについて、言う」とき、何が起きているのだろうか。

道を歩きながら思ったとしよう、「あ、レンギョウだ。」と。それは瞬間的な出来事である。実際は、「あ、レンギョウだ。」とまでは行かず、「あ。」だけかもしれない。「あ。」が起る。しかし、その「あ。」は、何の意味も無い「あ。」ではない。「あ。」と言う(思う)一瞬の振動の内には、複雑な意味が含まれている。それは、明示的に展開されてはいないが、豊かな言語的展開可能性を内在している。道を歩き、通り過ぎた時生じた言葉は、「あ。」だけであったとしても、家に帰り、家族と話すとき、「さっき道を歩いていたら、○○さん家の庭に、レンギョウが咲いていた。鮮やかだった。ずいぶんあたたかくなった。春だと思った…」と、その「あ。」はつぎつぎと分節し、言葉になっていく。言葉として分節されていく過程によって、分節される前の「あ。」のもっていた意味が明かになっていく。言葉で「あ。」が分節されるとは、すなわち「何かについて~であると言いあらわし、意味を固定して行こうとする運動である」。そしてこれまでの成果によれば(「思考について垂れ流す思考(2)」参照)、それが「思考」だった。

 

まわり道をしてしまったが、元の問いに戻ろう。「思考」が「起る」というのは、どういうことか。
さきほどの例をとるならそれは、「あ。」すなわち、言語的展開可能性を内在する未分化の意味の塊が、生じるということである。そして、未分化の意味が、展開して行くということ、それが思考が「起っている」状態である。


一瞬にして生じる「あ。」のことを、「意味凝縮体」と呼ぶ。そして、はじめ未分節だった意味凝縮が展開されたその成果を、「明示的意味内容」と呼ぶことにする。

 

この、「思考が起る・起こっている」という事態において起こるのはどんなことか。

 

まず、意味凝縮体が生じた時、意味凝縮体の成立それ自体について、言いあらわすことが、可能である。つまり「今、意味凝縮体が成立した」と言いあらわすことができる。平たく言うと、「いまじぶん、「あ。」って思った」と言える。
また、明示的意味内容への展開プロセスについても、そのようなプロセスの成立それ自体についても、言い表すことができる。平たく言うと、「いまじぶん、レンギョウだ、思った」。

つまり、意味凝縮体であれ、明示的意味内容であれ、それらについても同様に、「言う」ことすなわち、明示的意味内容を展開させることが可能である。

 

意味凝縮体・明示的意味内容、それらは、一般的な言い方をすると、わたしに意識されている。わたしに意識されてある。「レンギョウ」というとき、「レンギョウ」という意味を、わたしは意識している(きづいている)。あるいは、知っている。「あ。」と思う時、「意味ある何か」を知っている。意味的なものに直接触れている。

 

凝縮された状態であれ、展開された状態であれ、意味体に直接触れることができると同時に、意味体に意味される意味内容が、じっさいに事態として成立していることも、意味体の意味の中には、含まれている。
「あれはレンギョウだ」という意味体が、成立し、わたしはそれを知っている。「あれはレンギョウだという意味体が成立した、つまりあれはレンギョウだという理解が成立した。わたしはそのように知っており、そのような仕方で知っていることをも知っている。」。

意味それ自体は、いわゆる五感的な在り方をしていない。つまり意味自体に、色・形、肌触り、におい、音、味はない。「レンギョウが咲いている」と考えているとき、思い浮かんでいる「考え=意味体」に、香りは無い。


しかし、レンギョウには、色や形や、固さやにおい、音、味がある。つまりレンギョウは、五感的に、ある。この五感的レンギョウについて、意味は意味を持つ。「レンギョウがある。黄色をしてある。やわらかくある。つまり五感的にある。咲いてある。地面から生えてある。桜より低くある。丁寧に手入れされた庭の中にある」。このように言われたレンギョウは、もはや単なる五感的存在ではない。例えば、「咲いてある」は、単に、「紫の色をしている」という感覚に尽きない。咲くとは、花が咲くと言うことであり、つぼみが開花したのであり、いずれ種を作るかもしれないものであり…という、感覚的に現前していない意味がそこに含まれている。よって、ただ「咲いてある」といい、「咲いてあるレンギョウが、そこに存在する」と言う時、それは単に五感的なレンギョウがあるだけでない。五感的・意味的な複合体としてのレンギョウがそこにあるということである。「あ、レンギョウ」。「あ、咲いている」。それだけの一瞬の経験の内に、意味的な存在が、「そこ」にあるものとされている。そして、「意味的な存在」が「そこ」にあるということは、明示的には、分節されていない。それを言い表すプロセスが、思考である。

 

明示的意味内容の展開により、そのような意味内容をもつ、「意味的な存在」として「それ」は「そこ」にあるということは、何を意味するか。


「未だ分節・展開されていない」ということは、「前言語的・前思考的意味」が「そこ」に存在するということである。「あ。」という未分節の意味が(わたしの考えとして)思い浮かぶとき、未分節な意味的な「何か」がそこに存在する。

「あ。これは何だ。」。「これ」として「これ」を同定することの内に、展開の方向性が予めある程度定められている。すくなくとも、「これ」とは他から区別される「これ」なのだから、「これ」と同定した段階で、「これ」の領域はすでに限界づけられている。「これ」と同定するのは、一瞬である。そこに、意識的な選択は介入していない。「これとして」という同定は、少なくとも、意識的な言語・思考的プロセス「以前」の瞬間的出来事である。分節・展開可能性を予め規定する、瞬間的な、意味直観がそこに伴っている。別の言い方をすると、意味凝縮体の成立は、意識的な言語・思考プロセス以前の瞬間的出来事である。未分節的意味凝縮体としていわば「思い」が成立することがすなわち、思考の起こりなのだから、したがって思考が起るのは、意識的プロセス以前である。