思考について垂れ流す思考(2)

 

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

前回、言うとか叙述すると言う時の意味の一部を言いあらわしてきたが、では、「思考」とは。

 

「思考とは。」これが、問いの始まりでもあった。そして、「思考とはどういうことか」と問うているということ、まさに今していることが、思考するということであるはずだから、今まさにしていることを、叙述して行けば、その答えになるだろうと言う見通しだった。

 

そして、その過程で挙がってきたのは、「思考とは自らの運動を叙述して行く運動である」という叙述である。

 

しかし、思考が叙述するのは、叙述自身に対してだけではない。例えば、今目の前にある、「この腕時計は壊れているので毎日、11時になると秒針が止まる。きょうもきっと止まるだろう」という「腕時計」についての叙述も、思考である。

 

とすれば、思考とは「何かについて叙述する運動である」と一般化できる。そして、何かの内に思考それ自体も含まれる。叙述が叙述されるとき、無限の構造が生れる。ミヒャエル・エンデはてしない物語』の古老のとりかかろうとした叙述のように。

 

前回の「叙述」についての意味を思いだすなら、思考とは「何かについて~であると意味を固定して行こうとする運動である」。いま、「固定して行こうとする」という表現に言葉を改めた。「固定する」ではない。というのは、単に固定するのではなく、意味を固定する前に、固定を「何について」するかの、焦点合わせの方向付けを、思考は持っているからである。何かについて、言おうとする。叙述しようとする。意味を現し、固定しようとする。しかし、「ようとする」その段階では、まだ、意味は言われておらず、現されておらず、固定されていない。しかし、そのような「ようとする」段階も含めて、それは「思考」することである。

 

従って、「思考とは、何かについて~であると言いあらわし、意味を固定して行こうとする運動である」。今は、こう定義しておきたい。不都合あれば、また改変すれば良い。だから、「思考とは何か」と「問う」ことは、「思考について言いあらわし、意味を固定して行こうとする運動の初動であった」と言える。

 

ところで、「思考」が「起る」というのは、どういうことなのか。また、問いが生れた。何でこんな問いが生れたのか。この問いが生れた、ということが、まさに「思考が起る」というそのことなのだから、それについて叙述して行けばその答えになるであろう。