宗教的な欲求

何かこう、統一的な世界像のようものが欲しい、と常々感じている。

 

おそらくこれはある意味で「宗教的」な欲求なのだろう。
ここでいっている「宗教的な欲求」というのは、次の様な意味。

 

アウグスティヌスがしているreligio、つまり「宗教」の語源の説明によると、宗教においてこそ人間は自分の属しているところとの関係を「再び結び」(re-ligare)密接にすることができる。語源的にはこの説明に問題があるかもしれないが、一応それに従えば、人間が充満を希求すること、あるいは根源的で究極的なものに属そうとすること、根源的に憧れることが、宗教的な努力の原動力だと言えよう」(K.リーゼンフーバー『超越に貫かれた人間』p.17)

 

根源的・究極的なものへと結ばれたい。そこから、己を再び規定し直したい。別の言い方をすると、じぶんが生きているということがどのようなことであるのか、それを「そこ」から位置づけたいということでもあり、自分がそこに生きている世界がいったいどのようなものであるのか、一切を統合的に把捉したいという不遜な欲求でもある。

 

「神話の知」という言葉もある。
河合隼雄先生が、中村雄二郎さんの言葉を引きながら語るところによると、「自分を世界の中に位置づけ、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする」(『老いの思想』p.45)。そして、「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」である(同、p.46)。

「対象と私たちとを有機的に結びつけるイメージ的全体性を対象のうちに回復する」(同、p.46)とも言われるが、この回復への欲求、根源的な欲求とは、「自分の属しているところとの関係を「再び結び」(re-ligare)密接にする」という意味でやはり宗教的である。

 

そうすると、やはり私が常日頃感じているのは、宗教的な欲求に他ならない。
たとえばスピノザの『エチカ』という書物を見て、誘惑を感じるのは、そこにひとつの統一的な、ロゴスによって導かれ記述された、完成された宇宙像が存在するのでないかと期待するからである。あるいは、ベルタランフィの『一般システム理論』に興味を持つのも。

 

おそらく、一生の仕事なのだろう、これは。この満たされなさを満たし、憧れるものへと結ばれていくことは。苦しみから解放されたいという願望とはまた別のものだ。いくら日々の生活が苦しかったとして、生活の苦楽とは別に一生の仕事があるのは、うれしいことだ。そしてその根源的な場所から、日常の苦楽というものは、あらためて、位置づけられていくはずなのである。