この現実

あぁ、今日もこの現実にめざめている。
つまり、この身体、名前を有するこの人として自分が現実におかれている。朝目が覚めると自分はこの人である、という世界が開けている。
またこの人か。どうして別の人間として目覚めないのだろう。あっても決して不思議でないのに。

 

いや、そんなことあり得ないのか。
この人として目覚めるということは、昨日もこの人であったという記憶を持っているものとして今この人なのだから。「実は」昨日は「この人」ではなくて、別の「あの人」だったとしても、その「あの人」だった記憶は既にないのだから。
そもそも、実は昨日はこの人でなくて、あの人だった、とはいったい何を言っていることになるのか。この人だったりあの人だったり出来る私とは一体。

 

とまれ、一定の記憶にアクセスできる(一定の仕方の想起可能性をもつ)ものとしての、今・私なのであるが、端的に、その、今・私であるというというプレゼント(現(ニ)在(ル))の偶然! 端的に、「そうである」ことが「そのような仕方でそうである」ようになっていることのへの、感慨。自然に即して言うならば、水は高きから低きへ流れて行くなあ、という風になってるんだなあ、というような。ああ、この現実なんだなぁ。