思考と体験

主張A(たたき台)「考えは、体験に基づくものでなければ実質が無い。考えばかりでは仕方がない。体験に根差していなければ。世の人は、あれこれ想像をめぐらし、こうであろう、ああであろうと言っているが、そんなことは無意味である。そんなのは、ただの考えである。体験が大事である。考えでなく、体験から学ぶべきである。」

 

なるほど一面では、そうであろうが。

しかしそもそも、そのように考えと体験という分けて語るとらえが「考え」である。
さらに加え、考えるという営みそれ自体が、一つの体験である。かつ、体験から学ぶためには、思考が必要である。

ここで洞察できるのは、考えられた内容と、実際の体験を取り違えることや、考えで掴まれたことをもってすべて組みつかされたと完結することが、注意されるべきことなのであって、考える営み一般を取り去ることは通常不可能(あるいはそのためには特別な修練を要する)である、ということである。

このリンゴは赤いという体験を、そのような体験として体験する時、必ず思考が媒介されている。これは、リンゴであり、そしてこれは赤い。このような内容として思考されるものとして、体験を体験している。したがって、「いや、私は赤いリンゴを見た、という体験をしたのであって、考えてなどいない」と言う主張は正確に現実を見ていない。なぜなら、私を私として捉えること、それをそれとして、それをリンゴとして、リンゴを赤いものとして、捉える事は、思考の機能であるから。日常経験の世界経験は思考なしには決してありえない。

純粋に、「考え」の含まれない体験とは、それ自体、「考えの含まれない体験」という考えであるため、それを「言う」ことはできない。(一方で「言うことはできない」という仕方で言ってしまわざるを得ないが。いや、言っても、決して尽くせるものではないという言い方の方がまだ正確だろうか。)「何である」とは言えない。何であるものとして、体験を体験するためには、思考が必要であるから。

 

逆に、思考とは、体験を「何であるもの」として体験する体験において、「何である」と分節する機能を担うひとつの体験であると言える。

 

「何である」と分節することを、ここでは「ことわけ」と呼んでみる。ことわけとは「言分け」であり「事分け」である。

 

一切のことわけ以前の世界を体験することは、特別に意志的な行を要するはずである。その行は意志的であることの放棄すら要求するだろう。一番上の主張Aの言葉がことわけ以前の「そこ」から出たとき、はじめて真正のものになるのだろう。しかし、この言葉は、逆説として聴かねばならない。話者は思考だけでなく、即時「体験」を撤回し、「体験」を否定できる。と、同時に、そのどちらも肯定できるのだろう。