自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしない

池田晶子さん。

敬愛してやまない、「人生の先達」(この言い回しも池田さんだったきがする)である。

 

思う所もあって、ひさびさに『14歳からの哲学』の15章「友情と愛情」のページをめくって、池田さんの言葉を味読し考えた。

 

「つまり、彼らのすべてを丸ごと受け容れて認めること、無条件の愛情だ。愛情とは無条件であるものなんだ」

「どうして自分の好きな人だけを愛してちゃいけないんですか、どうして嫌いな人まで愛さなくちゃいけないんですかって、すごく素朴な疑問だよね。/ でも、その答えも、同じように素朴なものなんだ。いいかい、世の中には自分の嫌いな人、イヤな人がいる。でも、そういう人を嫌いだ、イヤだと思うその気持ちは、まさしくイヤなものじゃないか。自分にとって(原文傍点)イヤなものじゃないか。自分にとってイヤなことをしないのが、自分を愛するということだ。自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしないんだ。そうじゃないか?」(pp,102-103)

 

人をイヤだと思う気持ちは、自分にとってイヤなものだ。自分を愛する人は自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしない…明快なロゴスであり、僕はこのような語りを好む。(さすが池田さんだ!!、と。)

 

しかし、一つの方便としてはそれなりに役立つことはありうるとしても、承服しかねるところがある。いや、まったく承服しかねる。というか、明快な語りではあっても、厳密な議論ではないと思う。

 

自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしない」それはよいし僕もそう思うが、これは嫌いな人まで愛さなくちゃいけないのか」という、はじめの「すごく素朴な疑問」の答えにはなっていない。池田さんの論法で言えるのは、「自分を愛する人は、人を嫌うことを望まないだろう」ということだけで、「愛さなくちゃならない」とは言えない。「人を嫌ってはいけない」と「人を嫌うことを望まない」は区別は厳密にされる必要がある。

 

「まるごと受け容れ、認めること、それが愛である」という定義によるならば、自分を愛するということは「自分を丸ごと受け容れ、認めること」となるだろう。

とすれば、人が自らを真に愛することができているとき、人をイヤだと思う気持ちを「もっちゃいけない」「イヤだ」と思わないはずではないか。「イヤだという気持ちを持つのはイヤだ、人を嫌ってはならない、人を愛さねばならない」「人をイヤだという気持ちを持ってしまっていることはイヤだ、そのような自分を受け容れることはできない」。こう思う時、彼(女)は自分を愛していると言えないからだ。他人をイヤだという思いを持っている限り、そのような自分をイヤだと思ってしまい認められないならば、(他人をイヤだと思わない自分でなければ認められないならば、)それは条件付きの愛である。

 

真に自分を愛している人は、人をイヤだと思うことをイヤだと思わずに、そのような容量の小さな自分であるありのままを受容するだろう。自分があの人はイヤだと感じていることも、ありのままに受け容れ、認めるだろう。したがって、「自分にとってイヤなことをしないのが、自分を愛するということ」という二つ目の愛の定義により、「自分を愛する人は人を嫌うことを望まない」のが確かだとしても、「自分を愛する人は、嫌いな人まで愛さなくちゃ「いけない」と考える」とは言えないだろう。「愛さなくちゃいけない」と「人を嫌うことをしない、望まない」とは全然別物である。 

 

僕は一つの信仰を持っている。自分を受容することができたとき、自ずと人は他者をも受容することができるようになる、という信仰である。嫌いな人まで愛さ"なくてはならない"」と自らに課すのではなく、「人を愛することができるように"なりたい"」と、自らが愛する人間になることを、自ずから願うようになるということである。なぜなら、己のどうしようもない弱さや醜さをありのままに受け容れるとき、自分自身へのこだわりから解かれ(それが無私ということ)、他者に開かれていくであろうから。

池田さんと異なる道筋をたどってであるが、結論だけ見れば一致する。「自分を愛する人は、他人を嫌わない」。

 

ところで、「人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きているとも言えるんだ」(p.102)。

この言葉には大いに励ましを受ける。