瞑想について

Larry Rosenbergという人の、”Breath by Breath”を読んだ。
邦訳は、『呼吸による癒し』という本だったと思う。
お釈迦さんが説いたヴィパッサナー瞑想のやり方について書いてある。


きわめてまっとうだ、と思った。というとなんだか批評めいて偉そうだが。つまり、インチキやうすぺらい神秘臭がなく、そうだよなあと思ったということ。しかし、やはり「瞑想」とか聞くと、「怪しい」ということに世間ではなるのだろうか。


ところで、新たに読み始めた、とある本より以下引用、


「(…)この物心一如の唯一の世界に対しての「私」、客観世界に対する主観としての「私」なるものもない、というのが本書のいま一つのテーマである。それはいわば世界に対するものとしての「私」、の抹殺である。しかしそれは同時に物心一如の世界の中に私がおのずから復元することに他ならないのである。しかしその世界の中の一項目としてではなく、その世界のあり方そのものとして復元するのである」。

 

これは、別に仏教の本ではない。大森荘蔵の『新視覚新論』である(pp.ⅰ~ⅱ、東京大学出版会、1982)。

 

大森さんの文章はとびきりに明晰である。「私の抹殺」という事態が如何なることか、根気強く読み進めればわかるように書いてあるのだろう。「私の抹殺」という事態をほんとうに認識すれば、日々の我々の身の処し方が劇的に変容を遂げるはずだ。何と言っても、「私」が無いのだから。そして、私が死ぬことによって、世界のあり方そのものとして私は生れる、というのだから。しかし、それが知的に了解できることと、それを骨身に染みて実感していること、つまり体得していることは、次元の異なる事柄である。ここに、体を使った「修行」というものが必要となる所以がある。

 

それにしても、「瞑想」とは、誤解を招く字である。「瞑想」するとき、必ずしも目は「瞑」らない。また、何かを「想う」ことはしない。すくなくとも(僕の理解では)、ヴィパッサナーでは、現に存在するものに(例えば幽霊を思い浮かべたら、現に思い浮かんだその「幽霊のイメージ」に)観察の光をあて、心を拘束している「想い」を手放していくことが推奨されるので。