意見が苦手

自分の意見を言うのが苦手だ。

今日、「AかBか、あなたはどう思うか」と問われた。困ってしまった。「どう」と言われても。強いて言えば、「『どう』でもいい」。

 

池田晶子さんほどではないが、まぁ興味といえば、宇宙の普遍的真理。

あるいは普遍的真理以外には、個別的偶然的事象の観察。

どちらにせよ、魂の真実(ソノヨウデアルコト)を曇りなく見ること言っても良い。(と言いたい気持ちに今。)

 

 

ぼくの関心は、もともとそうであったことをそうであったと発見し、発見したそれを可能な限り明晰にことばへともたらすことであって、じぶんの意見を持つことではない。もともとそこにあった事実は、私の所有するものではない。それについて語る言葉は私が語るのだから私の言葉と言えばそうだが、そこで言わんとすることは、別にぼくの専売特許ではないし、だれのものでもない。ぼくの興味の対象は、「ぼく」ということに関係ない。(「~ない」「~ない」ばかりで申しわけない。)「ぼく」というこだわりはどうでもいい。ぼくの言語活動は、そう言った意味で、「写生」に近い。

 

「それについてあなたはどう思うか、あれかこれ、どちらがいいか。あなたの意見は。」と聞かれて。「どうでもいいです」というのが本心だった。「煩わしいと思います。どちらでもいいと思います」とぼくは思う。

 

ぼくの思いをより正確に「写生」するとこうなる。

「どちらを選ぶにせよ、メリットやデメリットもある。どんなことがそれに伴い起るかは誰にも予測できない。どちらがおこるにせよ、それについて覚悟を決めさえすれば、それで済む話だ。だから、どうでもいいし、どちらがいいかあれこれ妄想を巡らせる労自体が煩わしい。」

 

ところで「どうでもいい」というのは「意見」と言うだろうか。ぼくの「思い」とか「きもち」ではあるだろう。しかしこの気持ちを見詰めると、「意見」という語感には馴染まないものがあると感じる。「意見」は「主張」と同じく、他者に向けたアピールであるが、この「どうでもいい」というのは、アピールの含まれない、僕の心象風景の単なる「写生」に過ぎない。やっぱり、これは意見ではないな。でも、「どうでもいいとぼくは思うし、皆もそう思うべきだ」という気持ちが含まれていたら、それを言葉にすれば「意見」になり得る。

 

とはいえ、「写生」は、「意見」「主張」のように他者を意識して己をアピールする言葉ではない。しかしたんなる「写生」が人の心に力強く訴えることもあるのだろう。あぁこれは逆説だ。