あえて「見る」というそこのところ

 こないだ、「ところで、見る主体としての、私は見ることができない。見る主体としての私は、世界のどこにも属していない。」
と言った。そういう意味で、わたしは無である。

スケッチ。私―世界構造 -

さらっと言ってしまったが、考えるとよくわからなってきたそこのところをねちねち考えたい。

 

見ているものを見ることはできない、という主張、この命題が、正しいとか正しくないとか言えるためには、この文章の意味がまずは理解されていなければならない。ところが、そもそも「見る主体」という言葉が何を意味しているのか。私は何を理解していた(したつもりでいた)か。

 

確かなのは、「これが見る主体である」と指示した途端、それは主体でなくなることである。なぜなら、指示されうるものは、対象とか客体と呼ばれるものだから。(「今」捕まえようとすると、「今」は決してつかまれないという構造と似ている。今は「これ!」と指示した途端、するりと逃げて、もはや過去になっている。)
見られる客体という言葉は、それと比べると、その指示する所は明白である。例えば、「明白」とディスプレイに表示されている文字、これがそれである。
決して指示され得ないものを、我々は、なぜ「主体」として言葉で言っておく必要があるのか。主体は存在しない、というのではなぜいけないのか。

 

もし、主体は存在しないと言うことで済むなら、主体の対としての客体という意味も不成立になる。客体は、主体と相互に意味づけあって初めて成立する意味だから。故に、この時、これまで客体と言われていたそれは、主体に対する客体という意味がはく奪される。では、それは何か。あえて言葉にするなら、「現!」と言いたいが。

 

しかし、「見る」とか「主体」とか言う時に、なにかが言われている。「現!」だけでは、尽くされないなにかの意味が込められている。そこには、現実の世界がこうして成立しているその構造に関する何等かの理解が含まれているように感じる。

 

つづきはまた今度。