スケッチ。私―世界構造

素描的に。私や他の人たちが世界に住んでいるこの宇宙像について。


ⅰ)私は、PCを前に文字を打っている。タイプするという行為を行っているのは、この身体。この身体が何かすることがすなわち、私が何かすることである。

世界にはいくつも、身体と呼ばれるものが並んで存在している。河合さん、池田さん、鈴木さんなど名前を持つ「人」がいて、人々は、それぞれ身体をもっている。河合さんの身体、池田さんの身体、鈴木さんの身体という具合に。そして、池田さんの身体が字を書けば、それは池田さんという人が字を書いたということになる。それぞれの身体は、行為の主として、絶えず空気を吸い・吐き、PCのキーボードをたたき、他のものたちに働きかけている。そのような身体/人の中の一つとして、私の身体/私も、いる。

私は、世界に並存する数ある身体の一つとして、あるいは人の一人として、世界内の他の人やものに働きかけ、働きかけられる。


ⅱ)現―在している。森羅万象は、いつも今、現(ニ)在(ル)している。現在しているとは、そこにPCのディスプレイがあるとか、そのディスプレイに「私―世界構造」と字が映っているとか、そう言った日常的な明々白々(と思われる)たる事実が成立しているというそのことである。
 私の身体を中心として世界は現在している。また、河合さん、池田さん、鈴木さん等、他の人の身体を中心とした仕方の世界が現在してもいると、私たちは考えている。すなわち、このように私の身体を中心としたこの現在とは別の現在が同時に成立しているという世界観を我々はもっている。
 したがって、森羅万象が現在することを、「誰それは森羅万象を見る」とわれわれは分節する。「コップが現にそこにある」や「花が現にそこにある」ではなく、「私はコップを見ている」「河合さんは花をみている」や、「池田さんは水を見ている」と言うように。「見る」に対して「私は」「鈴木さんは」と無数の
主語が用意されることは、無数の異なる現在が並列的に成立しているということを意味する。
 ところで、見る主体としての、私は見ることができない。見る主体としての私は、世界のどこにも属していない。私の身体は、見られることができる。私の身体は、他の身体やものたちと同じように、見られている世界内に属して、現に在る。しかし、私の身体が、「見る」という行為をしているわけではない。「見る」があって、はじめてその中に見られる身体が、他の見られるものたちと同様に、あることができる。
 見ている私は、世界に属する対象ではない。私は無である。本来、現在しているというそのことだけがある。


ⅲ)私たちは、二重のありかたをしている。世界の中の一つの対象として身体的に存在し、他と交渉するあるものであり、かつ世界のどこにも属さず対象として決して現在しない無。
この二つの矛盾が結合しているとみなすことによって、複数のたましいたちが、世界の中に居ながらにして世界を見つつ世界内の他者とかかわりあい、住んでいるという世界観が成立し得る。(というのは何故かはもうすこし説明が必要。)