「私を知る」の二つの仕方

「私(自分自身)を知る」というときの観点として、二つのタイプが考えられる。

①ひとつは、「私」個人にまつわる、特殊な事情を認識するということ。
②もうひとつは、「私」というありかたをしているもの一般が持っている、「私」の共通のありかたについて認識するということ。

 

① とは、例えば、私は、何年何月生まれの、どこ育ち、こういう癖や考え方があり性格は○○、好きな食べ物は□□、生きがいは、夢は△△…という時に語られる内容。私の生活歴や性格・能力、私の持っている人間関係など、これらは、私個人にまつわる特殊な事情であって、当然、あなたや、彼・彼女については、またそれぞれ別の事情が伴っている。「自己紹介」するとき、言われる「私」についての内容はこちらに属する。

 

② こちらは例示すると、「私は思うという活動をする精神である」とか、「私は物質である所の脳である」とか、「私は、意識、無意識から構成される魂の中心である」とか、こうした言明により言われている認識があたる。Aさんも自分のことを、「自分」とか「私」という。また、Bさんも同じように「自分」とか「私」という。このように、皆が同じ様に語っている、その「私」といわれるもののあり方は、一般にどのようであるかについての認識。

 

もちろん、①的な私と、②的な私の二つが別々に存在しているわけでなくて、私は、私だけの特殊な事情をもちつつ、しかし他の私と同じ存在様式を持っているはずである。(という言明はちなみに、②に属する)

 

恐らく心理療法で扱われるのは①、仏教において覚知が目指されるのは②でないかと思われる。違うかな。どうでしょうか。