遠藤周作『沈黙』 私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのためにわたしはいるのだから

遠藤周作『沈黙』より一節。

 

ロドリゴ司祭は思う。

「いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。(…)魅力あるもの、美しいものに心ひかれるならそれは誰だってできることだった。そんなものは愛でなかった。」

美しい人、高潔な人、正しい人、善良な人、賢い人。そうした人に、価値を見出し、彼らとともにいようと願うのは、だれでもできることだ。でもそうではなく
、醜いもの、愚かなもの、悪臭のするもの、下劣なもの、ずるいもの、私利私欲をはたらくもの、「色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった」。


しかし「司祭はそれを理窟では知っていたが、しかしまだキチジローを許すことはできなかった。」。「キチジロー」とは、江戸時代、キリスト教弾圧の政治的状況の下、あえて日本に勇み布教に来た、ロドリゴ司祭を裏切り、密告した、作中の重要登場人物の一人。「色あせて、襤褸のようになった人間」の代表であり、人間の弱さの象徴である。

作中で引用されているわけではないが、新約でイエスはこう言っている。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。医者を必要とするのは、健康なものではなく、病人であるように。私は、罪人を招くためにこそ、来たのだ、と。

愛とは逆説である。美しいから、高潔だから愛する、のでない。美しくもない、高潔でもない「にもかかわらず」愛する。「にもかかわらず」に愛がある。

 

作品の最後には、キリストが司祭といつもいたこと、共に痛んでいたことが、うちだされてくる。

 

しかし、共に痛むこと、それは外面的には無力である。幾人もの信徒が迫害され、歴史的事実としては、みじめにむごたらしくただ死んでいくだけだった。殉教はかならずしも英雄的な光輝に包まれてはいない。その何もしない神の「沈黙」に、司祭の、われわれの葛藤や疑惑ある。

ところが、司祭に「沈黙」と映っていたものは、実は沈黙ではなかったと語られる。わたしはいつも、あなたがたと共にいる。これほど力強い励ましのことばが他にあろうか。「私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのためにわたしはいるのだから」と言うことばを、愛を、「理窟」としてではなく、あるいは、「盲信」されるドグマとしてでもなく、身をもって「知る」とはいかなることなのだろう…そこに、この宗教の核心があるのだろうか。

 

「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」の静かな最後の一文は、「あの人」への賛美であるように感じられる。