ありのままのじぶん

「ありのままのじぶんになる」とはどういう意味か。

 

「なる」という概念には、非AからAに(たとえば、「おたまじゃくしがかえるに」なる)、という意味が含まれているだから、当然「ありのままでないじぶん」から「ありのままのじぶん」に「なる」のだろう。

 

しかし「ありのままでないじぶん」なるあり方があったとするなら、そのありままでないありかたこそ、その時点でのげんにありのままの姿であるはずだ。つまり、「ありのままのじぶんでいられない、というありままのじぶん」。

そうであるとすれば、ありのままのじぶんとは、わざわざこれから「なる」もの、「なろう」とするものでもなく、はじめからそうであるじぶんである。ありのままとは「なる」までもなく、はじめからそうで「ある」そのありようをこそ指す。

 

したがって、「ありのままのじぶんになる!」と意気込むとき、結局、その時点で、現にある、ありのままのじぶんの姿をじぶんで拒絶するという現象が生じている。なぜなら、「なる」あるいは「なろうとする」とは、いまあるじぶんからいまだないじぶんを目指すことであり、いまだないじぶんを目指すとはいまあるじぶんを否定することであるから。ありのままのじぶんになる必要は無い。心配しなくても、われわれは、現にわれわれはありのままのじぶんである。追えば追うほど逃げて行くのがソイツである。

 

こう言った事態を指して、禅仏教の方では「従来失せず、追尋を用いん(十牛図)」(はじめから失っていないのに、どうして追い求める必要があろうか)と言っているのでないか、と(私は)知解している。しかし、もともとそうであったじぶんの姿を発見すること、そいつに目覚めることが大変に困難であり、ふだん我々は、ありもしないじぶんイメージを一生懸命妄想しているものだから、坐禅したり、棒でぶッたたいたり、無(むー)だの、喝(カツ)だの何かと手段が発達してきたのだろうと推察される。