砂の女、一読して。

安部公房砂の女』。

 

なんだったのか、この話は。

というか、初読、今回はどのように読み得たか。

 

小説を読んでいる間、読み終わってもしばらく余韻の残った閉塞感のようなもの。「賽の河原」と本文にはあったが、西洋で言う所のシーシュポスの神話のようなものか。無慈悲、盲目的な砂の運動、それに生活様式を同調させざるを得ない女との日々は、終わる展望など見込めない、無意味のくり返し。

 

しかし、砂の生活と、我々の生活との差異は何か。

 

それは、毎日の生活の中の、なぐさみ物のバリエーションの多寡でしかないのではないか。

たとえば、性欲の対象としての「女」、くだらないはずの漫画雑誌、臭い焼酎。その中に、満足(退屈しのぎ、気晴らし?)を見出してしまう。溜水装置の開発も、そのひとつだったのではないか。これは、男にとって以前の生活(教師としての都会での生活)における昆虫採集の代替であったかもしれない。

 

生きてることの不可解さ、自分のあずかり知らぬなにものかが進行していくことの、不気味な感じ。そんな中でも、なんとなく安住して生きていられる、くりかえしの生活。それは、小説の中の砂の部落においてのみならず、もともと我々の(読者の属している現実の)世界においても、真であるとしたら、この作品は、現実(の少なくとも一側面)を、その毒性を稀薄化させた上で、体験させ、目を開かせてくれたことになる。