光陰矢のごとし(3)

 2013年12月6日、12月9日に引き続いてなので、光陰矢のごとし、ずいぶん間があいてしまった。

 年をとるごとに時間がはやくなるとかいうのはどういうことか、という話で、これまでのところ、ずいぶんまどろっこしいことになってしまった(のでめんどうくさくなってほっぽいていた)。

 

 要は、時間が速くなったり遅くなったりするものであるなら、その速さを計るためには(「速さ」という概念が要求せざるを得ないので)時間の速さを計るための時間というのが別に必要になるはずだが、その時間の速さを計る時間それ自体は、計られる時間が遅かった時も、速くなった時も、同一の基準たりうるものであり続けなければならないというようなことを考えていてそれがうまく言えずにふらふらしていたというところか。基準自体が変化してしまっては、比較が成り立たなくなってしまう。つまり、時間の速さを計るためには、速くなる、遅くなるとは言われない時間がなければならない。

 

 時間が過ぎるのがはやい、といわれるとき、時間が矢や太陽や月のような物体が物理空間を移動するかのようにイメージされ、では時間とははたして空間を移動するような何かなのか、というような問いを招いてしまうことになる。が、「光陰矢のごとし」と我々が語るその日常的な現場をよく観察してみれば、事態はもっとシンプルであると気づく。結論を言えば、時間のはやさとは、人の情である。「もう」と感じる場合、人は時間が過ぎるのが「はやい」と言い、「まだ」と感じる場合、「遅い」と言う。ただそれだけである。


 過ぎるのがはやいと考えられている時間は、カレンダーで表現されるような日月である。「もう年が明けてから三カ月たったのか。はやいものだ。正月なんてついこの間だと思っていたのに」というように。カレンダーや時計で表現されるような時間間隔にたいする、人の「もう~」と「まだ~」の情念が、カレンダーや時計などの「客観的」時間間隔と、自身の内にある時間感覚のずれとして考えられる。そして、時間感覚を主として、時間間隔を計る時、その「ずれ」がはやさ・遅さという語りを可能にしているのでないか、という着想。「もう(まだ)」と感じることが、「はやい(遅い)」ということである。「はやい(遅い)」から、「もう(まだ)」と感じるのではない。むしろ、「もう(まだ)」という情念が、人に時間の「はやさ(遅さ)」を語らしめるのである。

 

 

 ところで、「もう」「まだ」を詳しく見れば、どちらにも「吸着」と「反発」が含まれているとわかる。「吸着」「反発」とは、「ほしい」「いやだ」のことである。
 

 例えば、急いでいるのに、信号が赤であるという状況。「まだか、まだか」と待つ時間は「長い」。時間が過ぎるのは「遅い」。赤信号に直面している今への苛立つ気もちは現在への反発。これは反面では、早く信号が青に変わって欲しいということ、非・現在(この場合未来)への吸着でもある。
 

 逆に行きたくない仕事への道中の信号、赤が青に変わったとき、その人にとっては「もう」であるかもしれない。「もう青か。行きたくないな」。待っている時間は「短い」。過ぎるのは「はやい」。青に変わる時「もう」という気持ちは、仕事へ向う足を進めねばならない青信号である現在への反発、反面では、まだ仕事を免れていた赤信号だった過去の吸着である。
 
 まとめるとこうなる。
 「もう」とは、過去への吸着、現在への反発。「まだ」は、未来への吸着、現在への反発。時間の早さは前者、遅さは後者に対応する。「今」への反発は両者に共通するもので、吸着の対象が過去か未来かの違いがある。
 


 「光陰矢の如し」も同じように考えられる。
 この時の「もう」は、経ってしまった日月への哀惜と、今が3月22日という現実・現在の認めたくなさ。「ほしい・いやだ」の理由は人に様々であれ(例えば老いるのがいやだ、若いままでありたい)、「光陰矢のごとし」には、過ぎたものへの「ほしさ」、今を認める「嫌さ」の情が含まれている、というか、その情が「光陰矢のごとし」と人に語らせているのだと言える。「ほしい・いや」が、時のはやさを生む。(いや、「光陰矢のごとし」としみじみと語れる人は、わたしは「ほしい」「いやだ」とは思っていない、と反論するかもしれないが、やはり過去の回想がしみじみとであれ、過去への哀惜は一種の「ほしさ」「吸着」なのだ。「いやさ」はゼロかもしれない。「ほしい」「いやだ」の量、バランス、質にもさまざまの濃淡があり、情を多彩にしていると考えればよい)

 
 子どもとは、今を厭うことなく生き、自身の未来に希望を持つものであるなら、彼らにとって時間がはやいものであるはずがない。年をとるほど時間がはやくなるとは、人が長く生きるほど多く堆積した過去に吸着しがちであることの別表現に他ならない。