祇だ草鞋を踏破せんと図るのみ

臨済という昔の中国の坊さんの語録におもしろい話があった。

 

臨済師匠が明化という和尚さんのところに行ったときのことらしい。
うろうろしている臨済さんをみて、明化さんが「行ったり来たりしたりして何をしようとしているのですか」。
臨済いわく「祇だ草鞋を踏破せんと図るのみ」。
わらじを踏み破る? で、つまるところは? 明化は問う。
こたえて臨済、「老漢は話頭も也た識らず」(このおいぼれじいさん、話もわからん)。
(行録一七、岩波文庫


棒でビシバシ、平手でバシリ、蹴飛ばし喝して、はてさてさて。

なにせトンデモナイ坊さん、トンデモナイ宗教があったものだ、こんなのでホントに何かつかめるものなのかと読んでいたが、この段は少々ピンと来るものがあった。というかおもしろいと思った。この話。

 

うろうろ、ぶらぶら。
何してるの。
ちょっと靴底つるつるにしようとおもって。
え、それで? 
だ・か・ら、靴底つるつるっていったら靴底つるつるって言ってるでしょ!

 
もちろん、臨済師匠は大真面目、全身全霊を込めてそのへんをうろうろしてたんだと思う。一生懸命わらじをぼろぼろにしようと。


なんだか可笑しい心地がする。この面白さは何か。


青天白日呵々大笑とか、柳は緑、花は紅とかいうのも、もしかしてこの可笑しさに似てるのかな。だったら、悟るべき悟りなんかないとか、いま・ここと別に得るべき真理なんかない、とかいうのもわかるかもしれない。あるものが、現にあるようにあっている、というそのこと。

 

「師は皆に説いて言った、「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常ありのままでありさえすればよいのだ。糞をたれたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこがわかる」」(示衆4、岩波文庫

 

禅仏教の方面では「遊戯三昧」とも言うらしい。
何のためになる、何の役に立つか、という問いかけからすれば、遊びは何の役にも立たない。他面、遊びはそれ自体が目的でもある。無為・無益・徒労でありながら、喜びそのものであるもの。ちいさなこどもが、両手をひろげて竹トンボみたいにぐるぐるまわるように。「ただそれだけ」で愉快で笑っているように。

 

太陽や月が空をぐるぐるめぐるのも、春になればふきのとうが土から光るのも、天地自然の遊び? 地震津波も、草が生え、枯れ朽ちることも?(…??)

 

ただ、のみ。少しぞっともする。

「祇だ草鞋を踏破せんと図るのみ」。

臨在師匠、これは愉快なことなのでしょうか、恐ろしいことなのでしょうか。

「カーーッ!! ばかもん、ああだこうだ分別しおって!! おそいわこの眼鏡!!」

 なんてくるか知らん。