夢日記活用の一途

 一般に、現実認識が歪んでいる人の話など取るに足らないことをわたしたちは知っている(例えば、「○○人は、劣った人種である、だから奴隷としてこき使ってよい」)。とすれば、まっさきに相手にしなくてよくなるのは、ほかならぬ自分自身である。

 そして、今言ったことに人が説得力を感じないとすれば、まさしくそのことが悲しいことに、認識が歪んでいることの証拠になる。なぜなら、たいがいの人は多かれ少なかれ「じぶん」の認識が歪んでいる(…はずだと思う)から。じぶんが歪んでいることに気付かないほど歪んでいる、ということ!

 

以下『瞑想とユング心理学』(ウォルター・オダージンク著)より。

「自己性による自我の鏡映は夢のなかで最も容易に見られる。そこでは、われわれの意識的な態度や行為が、無意識によって「客観的に」鏡映される。たとえば、われわれはだれかを助けることで慈善的な気高い行為をしたと感じることができるが、そのような状況を描いた夢のなかでは、われわれ自身が気づいていない、行為の背後にある裏の、利己的な動機があばき出されることがある」(p.45)

 

 なるほど、たしかに。


 「自己性による自我の鏡映」。なにやらむつかしいけど。たぶんここで言われている「自己」は、表層的意識だけでなく、こころの深い層、無意識まで含む包括的なわれわれの存在をいっている。

 ふだん、じぶんが知っていると思っている「じぶん」は自己愛的な動機に基づく、じぶんによってきれいに飾られた「じぶん」像でしかない。だれでもじぶんが優れている(賢くて優しくて格好良いなどなど)と思いたい。しかも、そういう心理を冷静に自己観察して、「じぶん臭さ」を毒抜きすることは非常に難しい。

 「人に席を譲るとは。なんて優しんだ、私! いい人!」「立候補しようかな。できるヤツって思わるかも、でも失敗したらかっこ悪いしな、やっぱりやめとくか……おや、あいつやるとか言ってるぞ、無理だろ、かっこつけたいだけだろ、ふん、だっせぇ」。というような、文章化するときわめて滑稽な心理は、普段、じぶんに見つからないよう、じぶんによって巧妙に隠蔽されている。きづいたら「うわぁ…」てなるじぶんの姿は、「うわぁ…」てなりたくないから、意識に出てきてほしくない!

 

 そういうわけで、たいがいの「じぶん」像はひずんでいる。

 ところが、夢を生み出すわたしたちの心の深層、「無意識」は、そのような「じぶん」のあるがままのすがた(例えば「利己性」)を「客観的に」映しだす。別の言い方をすれば、夢において、わたしたちは、あたかも他人を見るかのごとく、自分自身の姿を赤裸々に見ることが出来る。実際やってみれば分かるが、このことは、目が覚めたときに、見た夢を日記に記述してみれば、いっそう明らかに意識化できる。夢日記は「じぶん観察日記」たりうる。さっき「じぶん臭さを毒抜きすることは難しい」といったけれども、夢日記は「じぶん臭さ」対策の一方法として活用できそうだ。

 

 


 

 ちなみに、『瞑想とユング心理学』というタイトルのこの本ですが、

「瞑想は投影されたイメージを破り、投影の過程に気づかせ、そういったイメージをその本来のエネルギーの源へと溶解し、われわれが「現実」と考えるものへの盲目的な執着から人を自由にする。投影に費やされていた心的イメージがこのように自由になることによって、悟りの特徴である解放の感情や体験が起るのである」(p.55)

 だそう。

 

(投影というのは、さっきの例でいえば、「立候補したあいつはださい」ということがこれに当たるだろうか。本当はじぶんがカッコつけたいだけなのに、そのじぶんの内面的な影を相手の上に投げかけてしまう。複雑な心理的プロセスだから、日常的にエネルギーをむだ使いして、心を疲れさせてしまっている。じぶんがじぶんで心理をこじらせて息切れしている。で、瞑想はそれから解放させる、と。)

 

 

瞑想とユング心理学

瞑想とユング心理学