好き嫌い

 「だから」の連結の仕方に注目。

 

①「生物はみんな、食べねば生きていけない。私は生物である。だから、私は食べねば死んでしまう」
②「生物はみんな、食べねば生きていけない。彼は生物である。だから、彼は食べなくても生きていける」


③「ミニトマトって、かむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がするでしょう。だから私はトマトが好きなんです」
④「ミニトマトって、かむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がするでしょう。だから彼はトマトが嫌いだそうですよ」 


 ①から④の文章、構造としては、「だから」以前が、条件・理由で、「だから」以降は帰結をあらわしている。
 ①②の文章は、明かに②がおかしい。「だから」の連結が破綻している感じがする。「”だけど”、彼は死なない」ならまだしも自然に意味としては理解できるけれど、この場合、条件部分に例外を付け加えるという形をとっているだけなので、「だけど」以前から、「だけど」以降が帰結されるわけではない。対して、①は条件の部分を部分を認めたなら、私だろうと彼だろうと同じ帰結を認めざるを得ない、という論理的な強制力を持っている。


 おもしろいと思うのはトマトの話の方で(③④)、「私」「彼」は同じ条件というか理由を認めているのに、正反対の帰結を持っているという構造になっている。①②の場合と違って、片方だけが正しくて、片方が話の流れが破綻しているというわけではない。見た目的には、①②も③④も「だから」という言葉で、前と後ろの橋渡しをしているのは同じだけれども、その際に何が起こっているのかは全然違うように見える。


 好き嫌いには、論理的な必然性がないということだろうか。同じ条件を認めたからと言って、同じ結論が出てくるわけではない。何かを好きになるときというのは、理由があって、その合理的な理由にもとづいて、必然的に私はその人が好きであることが導き出されるわけではない、と?

 
 いや、別の角度から、考えてみる。

 
Aさん「なんで彼女のことが好きなの?」
Bさん「明るくて周囲に気配りが出来るから(照」


 明るくて周囲に気配りが出来るからといって、好きにならねばならないわけではない。なぜ「だから嫌い」という帰結なのではないのか、とは問える。ここでAさんにわかるのはただ単に、Bさんという人は「明るくて周囲に気配りが出来る人が好き」である、ということだけだ。

 

 ここでの二人のやりとりで、質問者Aさんが暗に理解しているのは論理的に整理すると、実はこんなことではないか。

 

⑤「Bさんは明るくて周囲に気配りが出来る人が好きである。彼女は明るくて周囲に気配りが出来る。だから、Bさんは彼女が好きだ」

 

この文章なら、「だから」の連結が理解できる(じゃあ、本当に、Bさんは明るくて周囲に気配りが出来る人ならだれでも好きなのかという疑問も起ってくるが(そうでなければ、この推論は厳密には成り立たないので)それは問わないこととする)。
実は、「Bさんは明るくて周囲に気配りが出来る。だから好きだ」というような単純な構造ではなかったということである。

  すると、③④のトマトの文章も、実のところその論理的な構造は、次のようになっていたのだと考えられる。

 
③´「私はかむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がするものがことごとく好きである。しかるに、ミニトマトは、かむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がする。だから私はトマトが好き」
④´「彼はかむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がするものがことごとく嫌いである。しかるに、ミニトマトは、かむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がする。だから彼はトマトが嫌い」

 
こう言う風にとらえなおしてみれば、実は①②と同じように「好き嫌い」の文章も論理的強制力を持つものとして理解できる。③④には、実は前提条件がもう一つ隠れていた、というわけである。好きだ、嫌いだ、という時も何か一定の心理的論理(?)があるらしい。(秋山さと子さんは「感情論理」といっていたのを思い出した(『自分らしく生きる心理学』PHP文庫、p.37))

 

 さっき上で考えたように「「だから」の橋渡しの仕方が違う!」という洞察はあまり正確でなかったらしい。
 本当は問題とすべきだったのは「私(彼)はかむとつぶれて中身がどろっと酸っぱいような甘いようなちょっと生臭い味がするものがことごとく好き(嫌い)である」というこの前提条件だった。

 

 なぜ「私:好き」「彼:嫌い」の組み合わせなのか。このことは問える。

 「なぜ、私はかむとつぶれて(略)なものがことごとく好きなのか」。逆に言えば何故、彼は同じものが嫌いなのか。私はこんなにトマトが好きなのに(なぜならトマトはかむとつぶれて(略)なのだから!)。彼はかむとつぶれて(略)なものであるトマトが嫌いだなんて、信じられない! 

 

 ここの前提条件(「私:好き」「彼:嫌い」の組み合わせであること)は、①でいえば「生物はみんな、食べねば生きていけない」に対応している。そうなっているからそうなっている、つまり、私がXが好きで、彼はXが嫌いなのは、端的に事実だからだ、と。要は好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いだ。「かむとつぶれて(略)」であるもの一般が好きな理由を、もっとおおきな前提条件によって理由づけたところで、問題は解消しない。どこかで「そうなっているものはそうなっている」と認めねばならない地点に到達するはずだ。

 

 私がXが嫌いである可能性は考えられる。「私がXが嫌いである」の意味を同様に理解できる。私が事実Xが好きであったということ、そのことはたまたま(偶然)だと言える。たまたまに「すぎない」のになぜ好きなものにはこだわるのか? 「たまたま」であることは、じつは「すぎない」といって片づけられるものではないからでないか。私にとっては、たまたまであるそのありかた以外のありかたを好き嫌いで選択することはできない(実際に彼がトマトが嫌いでも、「トマトが好きな方がいいな」とおもったからと言って、トマトが好きになれるようになれるわけではない)。たまたまのものが私にとってはそうであらざるをえない。偶然が必然味を帯びる。心理的必然性。

  ところで、論理的な強制力をもった形式は、別の可能性をうまく考えられない(②の文章の理解できなさ)。が、なぜこの形式なのか。なぜ人間には別の論理的な推論形式を考えることが出来ないのか。ただそうなっているからだ、そうなっているものはそうなっているんだ。必然が偶然味を帯びてくる。論理的偶然性。


 ただ、好嫌の心理は、努力とか経験によって変わり得るのでないかという気配があるが、真偽の論理は、あまりその気はないように思える。やっぱり境界はあるのか。偶然が必然味を帯びるのと、必然が偶然味を帯びてくるのは、だからといってどちらも同じだということではない。前者は個人的で、後者は普遍的でもある。(いや、西洋で体系化されたような論理学では解釈できない論理形式によって思考している民族なんかもあるのだろうか。どなたかご存知でしたら教えてください。)

 


 またなんかしょうもないことをしつこく考えてしまったという感じである。

 

 本当は「価値観」について考えようと思っていたのに。

 問いだけ出しておく。「価値」と「好き嫌い」は別なのか同じなのかとか。