ハァ、そうでありましたか

 池田晶子さんの数少ない動画。

http://youtu.be/aLo9KwZD5rA
間がカットされていて、その間どんなやりとりがされているかもわからないので、何の話か分かりづらい。池田さんが投げかける言葉も、どこまで本気なのか、試すためにいっているのか。

 

 


以下、動画の中のだいじと思われる部分をピックアップ。池田さんはI、景山民夫さんはKと表記。


3:41I「犬のうんちと神の存在証明は別ではない」「犬のうんちについて考えるのも、神について考えるのも自分の頭で考える。そうすると、神さまというのは自分の頭で考え出したものではないのですか」
K「いや考えだせるものではないんですね」


4:49I「神さまというものは信仰の対象としてではない神というものを私は、感じるんじゃないな(「感じるんじゃないかな」? 不明瞭で聞き取れない)、という形でしか神を考えられません」
「(あなたが言っている神は)信仰の対象としてではなく、自分の頭で考えた、神でしょう」
J「(いや)自分のこころで感じることが出来た神ですよね」


I「でもそれを感じるにせよ、ご自分でしょう。ご自分の外側に神を想定することが出来るでしょうか」
K「全部こころの内へ想定しています」(…)「(こころの内と言っても)どこまでもそれは自分ではないでしょうか」「自分の内側が神に通じている」
I「え?」
K「自分の外側に神がいてこうやってつかまえるのじゃないですよ」
I「まあ外でも内でも同じことなのですが」
(…)
I「じゃあ自分の心ではなく思考とおっしゃってみてはどうですか」「神さまについてこう考えている私の思考、神はそれではないですか…んふふふ」

西部邁さん「もしも私がなくなって、仮にこれが言葉っていうある種の普遍的な言葉がね、考えていて、(I:ええ、そうなんです。そうすると)それがたまたま景山さんの頭の中にとりついていてね(I:ええ、ですから、そういうような、)、何かを言わしている(I:あのう…)…」
I「いわゆる論理的な仕方で現れる、つまり悪循環を断ち切るための神、そういうものが、一番正確なものだと私は思います」
西部さん「自分はいないのであると。ここにあるのは神の意志とね、神から下さった言語があって、その言語が時間の中でいろいろしゃべってて、たまたまその一つの言語がね(I:えぇ)、景山さんの頭の中でこのあれこれの言葉をはきちらしたと(I:うん)。したがって自分がどう考えるかなんてことは(笑、不明瞭で聞き取れず)、いっさい無視してですね…というようになれば非常に首尾一貫しますけどね(I:うん)。」

周りの人「自分の言葉に責任を持たなくていいのか云々」
(…)


坂口さん「宇宙の法則を神と言ったり、仏と言ったりしている。その宇宙の中に我々生命体が生きている、云々」
I「どこまで行ったとしてもそのことについて考えているのはやっぱり自分なんですよ」
坂口さん「その考えている池田さんを作っているのが、宇宙の法則の中にあなたがいらっしゃる」
I「宇宙の法則を考えるのも私です、っていう風に悪循環が起ってくるでしょう、そこで人類は神っていう概念を考えださざるをえなかったんですよ」
(…)
西部さん「彼女が言っていたのはね、悪循環と言っていたのは、神について言うのは(? 不明瞭で聞き取れず)私である。しかし同時に私がなぜ考えられるかというと、確かに宇宙の法則なり言語の法則なり何なりのおかげでしゃべってる。私がしゃべっている、私がしゃべらされているっていうね、そういうこう悪循環ていうか二重性から絶対のがれることは出来ないと彼女は言っている訳です」

 


最初に言ったように間もカットされていて、その間どんなやりとりがされているかも不明なので、何を言いたいのか、よくわからない。でもまあ想像して解釈してみるとして。坂口さんや景山さんもいろいろしゃべっているわけだが、そのままにとるなら一番過激なことを言っているのは、池田さんだろう。

景山さんは言う。神はわたしのこころの内側に通じているもので、それを我々はこころで感じることが出来る。
坂口さん。神は宇宙の法則のようなものだ。その宇宙の法則の中にいろんな生命体が生活している。


どちらにせよ、自分と言うのがあって、神というものは、その自分ではないものとして想定されている。
こころの内側で神に通じているにせよ、「内へ内へ」と言う以上、外方向にせよ内方向にせよ私からは距離があるには違いない。「まあ内でも外でもどちらでもよい」。
坂口さんの方でも、法則なりなんなり、自分を取り巻くものとして何かあって、それが生命を作った、と。自分すなわち法則、ではないだろう。


そこで、池田さん。
曰く、神についてこう考えている私の思考、神はそれではないか。
「ポカン」である。いやはや。
連想した臨済師匠の言葉、やっぱり新入りの僧なんかはポカンとしたんじゃないか。


「你若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。你は祖仏を識らんと欲得するや。祇だ你面前聴法底是れなり」
(もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君たちこそそれだ。『臨済録』岩波文庫、p.33、入矢義高訳注)


神なんか探すまでもない。お前が「それ」である。ポカン。
池田さんの文脈に戻って。これどういうことなのか。


「いわゆる論理的な仕方で現れる、つまり悪循環を断ち切るための神、そういうものが、一番正確なものだと私は思います」
うーん…
「悪循環」とは何か。わかりやすく話してあるのは、坂口さんとのやり取りのところだろうか。

神が私を作った。私を作った神、と神を考えているのは私だ。その私を作ったのは神だ。と神について考えるのは私だ。…


神がいるから私もある。私がそう考えるからそう考えられたものとして神がある。がそう考えている私が神によって作られた。

このような悪循環が起る。「そこで人類は神っていう概念を考えださざるをえなかったんですよ」…?
物事を考えて行くと悪循環が起こる、そこでしょうがないから、「神」という「概念」を考え出して、そこでいったんきりあげたことにする、ということ、というか、人類が謎(わからないとわかったこと)に直面した時、その謎に対して与えた名が「神」だ、と言うことだろうか。でも、この議論では、どうやってきりあがったことになったのか、その辺の「論理的」な運びがいまひとつはっきりしていない。

 

 

最後の西部さんの発言が的確に池田さんの意を表現していたとして解釈してみる。もう一度引用。

西部さん「彼女が言っていたのはね、悪循環と言っていたのは、神について言うのは(? 不明瞭で聞き取れず)私である。しかし同時に私がなぜ考えられるかというと、確かに宇宙の法則なり言語の法則なり何なりのおかげでしゃべってる。私がしゃべっている、私がしゃべらされているっていうね、そういうこう悪循環ていうか二重性から絶対のがれることは出来ないと彼女は言っている訳です」


「神」というのを「自分を超えたもの」とでもとってみようか。


「自分を超えたもの」について考えられるのは、私がいるからだ。しかし私がいて、考えられることができるのは「自分を超えたもの」があるからだ。とすれば、私は「自分を超えたもの」についてしゃべっているが、しゃべっているのが可能なのは「自分を超えたもの」によってではないか。とすれば、私がしゃべっているというより、わたしは「自分を超えたもの」にしゃべらされていることになのであって、これまで、私が考え、私がしゃべるというのは、能動的な事態だと思っていたが、実はそんな能動性などなかったということである。「私が」などなかった。あるのはただ、「自分を超えたもの」の意志、「自分を超えたもの」の言葉のみ、と。

 

別の言い方を模索してみる。

 


自分を超えたものによって私は成立している。
が、どんなものについて考えるにせよ、それをしているのは「私が」である。じゃあその「私」とは何か。この私が考えられるのは、私を超えたもののおかげである。私自身が、私を超えたものに与っている。したがって私自身の存在そのものが私自身にとって、私を超えている。能動が受動である。
心の内へ内へと探求する、科学者のように、観測や実験等によって自然の法則を探求する。どちらにせよ、探求しているのは私である。そしてその私の存在そのものが私の理解を超えている。

 

普段「私、私」と思っていたのが「私」の本当の姿ではない。「普段から思っていた私」を超えたものであるのが、真の私である。普段思っていた「自明な私」なるものはじつは存在しない。あるのは「謎としての私」だけだった。謎としての私は、自身が不可解に思うものであり、自身が自身を超越している。超越しているからと言って、どこか別の場所にあるものではない。こうしてあれこれ考えているこれそのものが、「それ」であるのだ。

 

 

 

…というようなことなのだとしたら。

 


「論理」と言いつつ実は、でもやっぱり感受性でしかない。「神」について考えたり語ったりする人の、生きる質を変容させるのは。


「はてなの深度」とか言っていたのは池田さんだったか。忘れてしまった。つまり、どれだけ自分が自分としてあることの不思議を日々の生活の中で実感することができるか、という感受性。私がはてなではてなが神で。


「神なんか探すまでもない。お前が「それ」である」
「ポカン…ハァそうでありましたか」

 

 

 

臨済録 (岩波文庫)

臨済録 (岩波文庫)