光陰矢のごとし(2)

前回の続き。ちょっと脱線。

 

ちょっと勘違いしていた。というか不注意だった。

 

 Tempus Fugit
は直訳すると、
 時間は飛ぶ

 

だから、なにか無理がある感じがしてたのだけれども、

 

 光陰矢のごとし

 

は、「光陰」とは辞書で引くと、日と月のことだそうだから、「矢のごとし」といってぜんぜん無理がなかった。日も月も、空を巡るし、矢も宙を飛んで行くから、どちらも「空間移動」ということでごくごく自然に比喩が成立している。不自然な飛躍がない。なんだかみずみずしくて詩情豊かな気さえする。


 光陰すなわち日や月が、自然にたくして時間を象徴するものであるとか何とか解釈するのは、その次の段階で、だから、日や月が「すなわち」時間であると変に頭働かせて解釈しなければ、あまりこの表現には問題は無い。そして「ほんとだねェ、お月さん、もう30ッペンもまわったのかい、丸いねェ」と言える。言いたいことはこれで伝わっている(はず。「時間は」なんて持ち出さなくていい)。

 

 が、Tempus Fugit
はそれとちょっとちがって、「時間は」と主語にとった段階で、すでに上で言う所の次の段階のところを直接言ってしまっている。引っかかる。時間は飛ぶ! 上のと比べるとなんともまあ抽象的で雑な感じがする。しょうもないことにいちいちひっかかっているなあと自分でも思うけど。

 

 というか最初何を考えようとしていたのか忘れてきた。


…ああ思いだした、時間が過ぎるのが早くなる、という話だった。次回は、「時間」のある特性を空間移動的に表現する言い方が、何かの比喩として仮にもし考えられるとして、その比喩が、比喩として何等かの仕方で有効に機能していると仮定して、でグラフを描いたとき、横軸は時間で、縦軸には何をとるか。というような、妄想だかなんだかわからなくなりつつある思考実験の続きを。