死の恐怖 つけたし

こないだ(2013.11.27)のつけたし。

 

 

「そしてそこにどうする力も持たない自己意識だけが永久に!」というがそれは、「死の恐怖とはこのとき、考えられうる未来の諸可能性と、その可能性のいずれが実現するか無知であることへの恐ろしさだから、決して自分が消滅することの恐怖、ではない」と言っていたが、そうではないように思えてきた。

 

むしろこの時、「じぶんがこうして存在していること自体のおそろしさ」があらわになっているのではないか。…あらわになっている「だけ」といっていいだろうか。 

…つまり自分がこうして在るのは、常にずっとこれまでもそうだったはずではないか、しかしさまざまな事物(花や人々、音楽など)に気を取られてそのことを直視していなかった「だけ」ではないか、と。

 

体が死んでも幽霊みたいになった自分は残るとしたら…と考えて(妄想して)みる。「いや残るなんてことあるのか」という問いはおいておいてその可能性に想像を膨らませてみる。
もし残ったとしたら幽霊になった自分はどうこれからの人生設計して行けばいいのだろう。自分の寿命はあと何年か、とそのとき問うだろうか。自分が消える、とはどういうことかは、例によってうまく考えられなくて息が詰まるだけである(幽霊は息しないのだろうけれど!)。じゃあ自分というのがこのまま幽霊として存続しづけるとして、おれはいったいこれから何をして時間をつぶせばいいのか、永久、文字通り永久に、果てしない時間を、いったい何をしていりゃいいのだ! と思ってぞっとしないか。

 

思い出したけど、手塚さんの『火の鳥』の未来編(だったはず)をこどものころ初めて読んだときに感じた不気味さ、はこの感覚に近い気がする。体が消えても決して無になることが出来ない主人公。あれ、最後はどうなったのだったか。何か宇宙の一切と合一したのだったか。それで救われたのだろうか。

 

「じぶんがこうして存在していること自体のおそろしさ」に取りつかれた人間は、自分が消えることに救いを見出し、それを希求するだろうか。しかし、自分が消えた時「消えた、救われた」と喜ぶ自分もない。「自分の無」に救いがあるなら、わたしは、「自分には決して与えられない自分の無」という観念を自分の存在しているうちにおいて「ただ持っているというそのこと」によってのみ救われる以外にない。もちろん救いがあるとすれば、自分の存在しているうちにおいて。

 

 

 

死の恐怖、というか自分が居ることの恐怖、という話になってしまった。

 

 

火の鳥 (2) (角川文庫)

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