万古不易の真理(2)

「だから先の「万古不易の真理が存在するならば、それはその意味する所の本性上、現に今もそれは真理として存在しているはずである」という考えは、こう考える以外に他のありかたを考えられないという意味で、そう考えるのが必ず然るべしである。他のありかたは今だけでなく過去にも未来にも、考えることが不可能である。したがってこれは万古不易の真理である。」

 

前回(2013.11.17)に考えた所。「他のありかたは今だけでなく過去にも未来にも、考えることが不可能である」ここがあやしい、と感じたらしい。なるほど。で、なにがあやしいとおもったか。続きを考える。

 


「他のありかたは今だけでなく過去にも未来にも、考えることが不可能である」と考えているのは、あくまでも今の自分でしかないではないか。「これは万古不易だ、あしたになって私がこの考えを撤回しているなどあり得ない!」といくら確信していても、それは今現在の自分が確信しているだけであって、次の日には、前の日には思考不可能だった形でその信念の誤りに気付く可能性はあるのではないか? という怪しみである。

 

「いやいや、今自分が確信しているのは、次の日になって撤回されうるものではない」と今の自分はもちろん確信していて、これとは別の可能性の具体相を現時点では考えられないでいる。そうでなければそれが「万古不易の真理」とは確信できない。

 

しかし、今持っている思考の発想とは全然別の発想が、もしかしたら在りうるのではないか? という可能性への疑惑を持っているとき、現時点では「他のありかたは今だけでなく過去にも未来にも、考えることが不可能である」と考えざるをえないでいる、そのことへの怪しみが可能になる。(もちろん、現時点では、その可能性の具体的な在り方については考え付かない。がその可能性が存在する可能性は今時点で考えられる。だから怪しむ。)

 

 

ややこしい(くどい)が、整理すると、こうなる。

 

①Aという考えが万古不易(過去現在未来を通して真)であると考えざるを得ない。
②が、「Aという考えが万古不易(過去現在未来を通して真)であると考えざるを得ない」と考えているのは、現在という限定された一時点においてである。
③どんなことであっても、何かについて考えているのは、現在という限定された一時点においてである以上、現在において「Aという考えが万古不易(過去現在未来を通して真)であると考えざるを得ない」と考えたとしても、未来においては、現時点での思考の可能性を超えた思考が可能になっているかもしれない。
④これは、Aという考えは、実は万古不易でない可能性を意味する。
⑤ゆえに、我々は万古不易の真理を確信できない。

つまり、なにを考えたとしても(例えそれが万古不易の真理だと思ったとしても)最後には必ず「…と少なくとも現時点では考えざるを得ません」と我々は付け加えるのが正確な所だろう、ということになる。(と少なくとも現時点では考えざるを得ません)

 

 

(※「『未来においては、現時点での思考の可能性を超えた思考が可能になっているかもしれない』という可能性を疑うことができないほど、『Aという考えが万古不易(過去現在未来を通して真)であると考えざるを得ない』という考えも万古不易(過去現在未来を通して真)であると考えざるを得ない』」という反論にたいしても、そう考えているのは現在だけで、未来においてかわっている可能性は否定できない、と切り返しうる。いや、そのような切り返しをうけつけないような、強い確信がありうるのだろうか? というか、われわれが日常において、何かを確信しているというとき(そう考えざるを得ないとというとき)、これほどまでに強い確信を体験しているのか? それを「確信できる!」というのは、人の気質に依っていないか? 例えば疑い深い人と、大胆な人。人によって何を確信できるかは違うのではないかという問題は、たぶん真理の普遍性の問題につながっていると思う)

 

 

と、ここまで考えてみてあらわれてきた問題は、「確信する」と「ある(存在する)」の違い。「⑤ゆえに、我々は万古不易の真理を確信できない」のだとして、「しかし、われわれがそれを万古不易の真理だと確信することができなくても、”実は”それがやはり万古不易の真理であった。よって”実は”万古不易の真理はある」という事態。