死の恐怖

河合隼雄公式サイト」から。谷川俊太郎さんと、工藤直子さんが対談をされている。

 

http://hayaokawai.jp/hayaokawai/project/

 

「死の恐怖というのは、河合さんは自分自身の消滅」とおっしゃっていたという。自分が消えると言うのが怖い。
谷川さんは、「自分以外の、例えば母親の死」、否「”例えば”じゃなくて母親が死ぬのが怖かった」。

 

自分の場合はどうか。

 


思いだすのはこんな場面。中学生くらいだったか。
夜、電気を消して布団に入っている。
そうしておおよそこんなことを考えている。


「死ぬというのはどういうことなのだろう。天国に行くのだろうか? いや死後の世界なんてものはほんとにあるのだろうか。…あの世がないなら、自分はただ消えてなくなってしまうことになるけど…。じゃあいったい自分が消えてなくなるというのはどういうことなのだろう? 自分がいない。自分がいない、とは…。」


で、自分が消えた、ということを想像しようとする。布団のなかで一生懸命考えている。自分がいないとはどういうことなのか。暗闇がまぶたの裏でちらちらする。

 


この時考えていたのは、「自分が死んだ後の世界の様子」のことではない。それならいくらでも考えられるから、こんなに頭をひねる必要は無い。例えば、親は悲しむだろうとか、学校の教室の席が一つ分あくのだとか、地球上の大部分の人は、自分が死んだことを知りもしないだろうとか。

 

が、このとき「自分が消えるとはどういうことか」という問いの仕方で考えていたのは、別のことである。要は、「自分が消えてしまって、いない」という時、それは例えば、痛いのか、冷たいのか、苦しいのか、寂しいのか、とかそういうことである。他人の目から見てぼくという一個人が死ぬ、という出来事はどういうことなのか、じゃなくて、自分が消えるということは自分にとって恐ろしいことなのか、どうなのかということ。うまく言えない。「自分が消えるというのは怖いことなんだろうか」というようなことを考えていた気がする。

 

もし「自分が消える」ことが苦しいことだとすれば、死は恐ろしい。がそう考えた時、自分の考えようとしていたことがうまく考えられていないことに気付いてしまう。どういうことか。

 

死ぬとは、自分が消えることで、それは、苦しく恐ろしいものなのだとすれば、死を苦しみ恐怖している自分、というものがその時、そこにいることになる。つまり、それでは、自分がいない、消えてしまった、ということにはなっていない。自分が消えた、自分が存在しない、ということが、苦しかったり(逆に楽しかったり)するようなことならば、そのとき苦しい(楽しい)自分がそこにいるはずで、自分が消えた、ということになっていない。自分が消えてしまった、自分がいない、とはそんなことではないはずだ。それはどういうことか。自分が無いとは。

 

…苦しい、もどかしい。うまく考えられない。息が詰まる。背中から首筋あたりがむずむずと居心地が悪い感じが走る。
布団の中で、体をゆすってその感覚をぬぐい去ろうとする。そしてようやく「あぁもう」と口からもらし、上半身を起こして、「ふぅー」とおおきく息をつく。
そして自分に言い聞かせる。「ともあれ今は生きているのだから、今を精いっぱい生きよう」。

 

そんな所である。なんも解決しやしなかった。が我ながら健全だとも思う。

 

これをどう評価すればいいのか知らないが、今もこのときから考えることは大して進歩していない(ただ今は自分が消える、とか言う時の、「自分」っていうのがそもそも何なのか、という方向に問いがシフトしている)。自分があのとき考えていたことを、あのときより多少整然と言葉にできるようになっただけである。


そういうわけで、自分の消滅としての「死」には今のところ恐怖はない。考えられないもどかしさに体がかたくなって息がつまる、という感じの不快感しか覚えない。

 

恐ろしいとしたら、「自分の消滅としての死」ではなく、むしろ、「自分の肉体の活動の停止としての死」の後に何らかの形で「じぶん」というのが存続していて、それこそ暗闇のなかにたった一人で永遠に浮遊している、例えばそういう状態である。体もない、何も見えない聞こえない、何かが変わるということも永久にない。そしてそこにどうする力も持たない自己意識だけが永久に!

 

これは一種の立派な「死後」だろう。が「死後」と言っても、そこに存在している自分がいることには「生前」と変わることがない。

じぶんはやっぱりそこにいる。おそろしいことに。

 

死の恐怖とはこのとき、考えられうる未来の諸可能性と、その可能性のいずれが実現するか無知であることへの恐ろしさだから、決して自分が消滅することの恐怖、ではない。