問いの開始地点(1)

 

 ものを考え始めるそのところ、っていうのはどんなところなんだろうか。

 

 自明性(アタリマエであること)は、問いの以前だと言える。つまり、ものを考え始める前。人は当たり前のものを問うたりしない。アタリマエであるが故に、それについて考える必要もないと思っている。

 
 いやこれは嘘だ。「必要もないと思っている」と今言ったがしかし、そう「思っている」ことは、自分自身に意識されつつ思っているのではなく(つまり「必要もないと思っている」と気付きながら思っているのではなく)、「意識されずに思っている」ということ、正確には、「意識されずに思っていた」と後でその時のことが再解釈されるという仕方で初めて言われることであることには注意であって、要は「必要もないと思っている」ということが「わかる」のは、必ず事後的な形をとる。気付いていない(無意識である)ことは、字義の上から、「気付いていない」ということなのだから、○○に無意識であることを意識しているのは矛盾であって、「○○の無意識」が気付かれるという事態は、○○に無意識で「あった」と意識するという仕方でのみありうる。


 

 だから、「問う必要もない」そのことの存在は、何らかの契機によって「問う」ことが実際に始まってから、初めてはっきり意識されてくる。そして「問う必要もない、アタリマエだ、と思っていた」と事後的に気付かれることになる。あるものの自明が自明として気付かれるのは、自明性に亀裂が入ってからである。

 

 無論、「私は何かについて、今現在気付いていない」とはもちろん言える。「私には今意識していないものがある」と。が、その「何か」「今意識していないもの」が、「何」かは言えない。「何」として主題的に取り上げることは出来ない。「何か」として無規定(それが規定される予感があるなら、未規定)的に言われるだけである。逆説を弄するような言葉づかいをわざわざするなら、非主題的なるもの一般として、主題化される、ということ。「一般」といったのは、「非主題的なもの」は個別のものとして特定されておらず、特定されてしまえばそれはもはや「非主題的なもの」でなくて「主題的なもの」になってしまうからである。


 「私には今意識していないものがある」とは明らかにある世界観が前提されている。意識する、気付いている、とはいったいどういうことなのか。

 考え出すとどちらに進んでいくか分からないから困る。無論面白味もそこにあるが。これは途方もないからおいておかないといけない。きょうは疲れたのでこのくらいでお終いにする。