秋の植物園に行ったこと

11月3日、昨日北大植物園へ行った。

 

札幌市中央区、何条何丁目と四角く区画された道路やビルの一角にあるところ。人口およそ190万の都市のまんなか、コンクリートの堅皮に密閉された大地も、そこでは自由に呼吸して生命として自分を表明できる。

 

いくつもの年を重ねそびえたつ、精悍なハルニレの樹皮のひび割れに触れてみる。においをかぐ。あなたは、と呼びかけたくなる。叡智がそこにいるのだと。


はらはら、葉はなれちる一風の音、
いろいろ、色いろどるあたりいちめん


ああ死にゆくとは、かくおだやかたりうるものだったか。秋から冬へ。こころあたたまって微笑して歩く。

 

 

…なあんて感傷的な! 甘かった! 見よ、
老木が暗く湿った森の陰に斃れ、蔦(つた)や茸(きのこ)にその巨体を喰われている。水を吸い、光を浴び、まるで際限なんて知らないように肥大化していったその醜いからだ、自分の重さに耐えかねて裂けて腐り、倒壊したものもあったのでないか。

 

森で出会った、蝶の羽のようにみずみずしく淡い、むらさき色の名も知らない野花。夕空の、太陽と夜の間の色。自然の妙・玄に叡智や神秘を見る。他面、グロテスクにどこまでつづくとも知れない、自然の運行の生臭くて気味の悪いこと。

 

あの樹は自分に与えられたさがを嘆き、呪いはしなかっただろうか。

 

現にかく在る世界の一切を、かく在るべく産出した根源的なあるもの、なるものをもし仮に考えてみたとして、それを「神」と呼ぶなら、その神は我らに限りなく糧と恵を給うものであると同時に、一面において限りなく無慈悲で非人間的でもある。

しかし人間にとって、必ずしもいつもアリガタイわけでなくて、時に気味悪くて、不条理で、残酷で、それがあったとしても、彼がそのように非人間的であることは至極当然、ばかばかしいほど当たり前だとも言える。なぜなら神は人間じゃなくて神なのであるから。生命が神秘であるならば、腐敗も神秘でなければならない、がそれは受け入れがたい神秘である。