お母さん

そう言えば今日、よちよち歩きのこどもをつれた、買い物帰りのお母さんを見かけた。人の家の敷地の前で立ち止まったこどもに、「だめ、怒られるよ、はいっちゃだめ」と何度も声をかけていた。怒られることを怖がっているような困った声だった。

 

そこに入ったら、怒られるよ。怒られたら怖いでしょう。そこに入ったら怖いことが起るのよ。怖いことが起こるのが怖い、言うこと聞いてよ、怖いよ、どうして言うこときいてくれないの…。

 

こどもはお母さんの方を見向きもせず、敷地の前で立ち止まって中を覗き込んでいた。お母さんは、怒られるのが怖いこどもみたいに、泣きそうな顔だった。

銀歯  歯医者に行った日に

焼却されて脳髄が蒸発しても残るんだろかこの銀歯。

たとえば仮にぼくがあす死んで。

 

 

ふじゅふじゅ 創作オノマトペとフォーカシング

じぶんの身体の、のど、胸、お腹のあたりに、注意をむけてみる。視覚的に「見る」、というのでなくて、どんな「感じ」がするか内側から感じてみ(観)る。
そうすると、なんかもやもやしていたり、なんかムカムカしていたり、そういったものが、そこにいるのがわかる。そのもやもやや、ムカムカは今日あった誰それさんとの出来事に関するものだったり、何なのかはっきりしないときもある。
このもやもややムカムカなど、自分の内側から感じられる「何か」のことを、フォーカシング(「ジェンドリン フォーカシング」などで検索したら出てきます)の世界では、「フェルトセンス」と呼ぶが、フェルトセンスにフォーカスし(焦点を合わせ)、関心を注ぎ、丁寧に耳を傾け、やりとりを重ねていくと、洞察・新しい理解・創造が我々に訪れる可能性がある。

 

【仮説】

フェルトセンスに一言、ぴったりくることばを見つけようとするとき、(「取っ手(ハンドル)」をつけるとき、)、オノマトペをつけてみるのが役に立つのでないか。「もやもや」「イライラ」など既存のオノマトペだけでなく、まったくあたらしく、音を組み合わせて。

 

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実験。実際にフォーカシングする。以下。

ここ1週間ほど、自分の中に、悲しみのようなものが常に注意をむけると存在していることに気づきはじめた。情動的な色合いが濃く、たぶん、かなしみのような…。「それ」にぴったりする言葉を探すと、「ふじゅふじゅ」。ふじゅふじゅしたかなしさみたいなもの。その存在に気づいてはいるが、それは晴れず、すっきりしない。

心の中でずっと泣いている。雨が降っている。でも、わーっと放出するような悲しみではない。こらえてにじみでるような悲しみ。「ふじゅふじゅした」悲しみ。

…そう言えば、こどものころから、兄や父にひどいことをされても、歯を食いしばって、息をのみ込むようにしか泣くことができなかった。泣けばより相手を怒らせ、辛い思いをするから。叱られたり暴言を吐かれても、言い返すことも、泣き叫ぶこともできず、ぐっとのみ込み、その場を離れ、別の部屋で一人になってから声を押し殺して泣いていた。

試しに、と思って、腕を拡げ、口を大きく開け、「わあぁぁぁーーーーっ!!」と泣き叫ぶような、ポーズをとってみた。ポーズで感情を表現する、彫像の作品みたいに。
すると、まるで体のストレッチみたいに、心のしわが伸び、ここ1週間ほど続いていた、ふじゅふじゅしたかなしさが、すぅっと薄らいでいった。かつ、悲しみでもあるかもしれないが、それは怒りだということがはっきりしてきた。ただの怒りでなく、相手へ向けられた怒り。怒りをぶつけられる相手がいないといけない。その押し込められていた相手への怒りを放出したような感じ。あぁ、そうだったのか。ずっと叫びたかった怒りだ。なりふり構わず、相手に向って、泣いて叫んでみたかったんだ。あえて擬音にこだわるなら、ボギャーと口からキャノンビームを発するみたいに。

 

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実験終了。


ポーズをとってみるというのも、「何かはっきりしないもの」に表現を与える一つの手段だと考えるなら、ぴったりくるポーズをとることも洞察ということになるのだろう。
今回は、「ふじゅふじゅ」という創作オノマトペをとっかかりに、「息をのみ込むようにしか泣けなかった」ことがわかり、本当はそのときそうしたかったその感情にぴったりくる何かが、「ポーズ」を介して表現された。結果、自分が感じていたのは「『相手に対する』怒り」だったのだ、ただ淀んでたまっている怒り、悲しみでなく、相手にめがけられてぶつけたかったのだ、という側面が明確に、全身をつかって意識化されたということなのだろう。
なるほど。ポーズを介して洞察するというのは初めてで思いがけないことだったけれど。
プロセスは確かに進展した。心の部屋の窓があき、新しい風が吹き込んだような感じがしている。

 

とっかかりをつかむのに、フェルトセンスに尋ねて、オノマトペを作ってみるというのは、役に立ちそうな手法である。フェルトセンスを漢字一字で言いあらわす漢字フォーカシングというのは聞いたことはあるが、オノマトペ・フォーカシングというのは聞いたことはまだ無い。だれか研究している方はおられないのだろうか。

 

あたらしいオノマトペをつくる…意味以前(のはず)の純粋な音の自由な組み合わせが、意味の質感を表現し得ると言うのは不思議な現象ではあるが、実際おこっているのだからなおさら不思議である。「あ」「い」「う」…。意味以前の純粋な音。意味以前であるが故に、異なる意味を生み出し得る。時に相反する。たとえば「『あ』い」「『あ』らそい」。音は、意味構成の形成素としての、それ自体は無意味な意味潜勢体。

 

ふぅ、すっきり。ふじゅふじゅは、どこにいってしまったのだろう。創作オノマトペは実益もある。

思考について垂れ流す思考(5)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

「思考は、どうやって生れるのか。
答えることはできていない。
これは、どうしてじぶんの身体は(或程度思う通り)動かせるのか、という問いと同じでないか。」
と前回書いた。

つまり、身体的な活動のある部分は統制可能である。こうして指を動かし、タイプしていることはその一例。しかし、内臓の活動は、意識的に統制しているわけではない。例えば消化、心臓の鼓動。身体的な活動は意志的な統制可能な部分と、意志的な統制が不可能で自律的に(勝手に)動いて行ってしまう部分とがある。
呼吸のように中間もある。また自転車の乗り方を覚えるときのように意識的統制を繰り返すと自動的になっていく場合もある。

同様に、いわゆる心的と言われる活動領域も意志的な統制可能な場合、統制を越えて自律的場合も共にある。すなわち、思考やイメージにも統制可能なもの時もあれば、夢のように自律的なもの、と両方。

思考が、或程度思うどおりに思考できたり、出来なかったりするのは、体が思う通り動いたり動かなかったりするのと大して変りないように思える。思考が生れるのは、つまり思考が展開するのは、体が動くのと、意志的統制性とそうではない自律性とにおいてかわらない、という意味で。

思考について、これまで思考してきたが。
今は、関心が魂とか、自分の存在そのものとか、そういう所に移ってきたように思う。

思考について垂れ流す思考(5)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

思考空間あるいは内言空間とでも言うべき所に言葉が生れている。
こころの中で、つぶやきが生れている。
このつぶやきは、いったい、どうして生れるのだろう。

どこから、思考はやってくるのか。あぁ、不思議だ。
箱の中から玉が取り出されるように、言葉も、どこか心の奥底から、取りだされてくるのだろうか。あらかじめ存在していた言葉が、とりだされてくるということなのだろうか。いや、そんなはずがない、と言いたくなる。言葉は、思考される前までは存在しなかったはずだ。言葉は、つむがれて初めて存在するようになったはずだ、そういいたくなる。

なにも無いと言う所から、なにかが生れるとは、どういうことなのだろう。問うておきながら、自らが何を問おうとしているのか、まだ明確ではない。こうして思考しているうちに明確になって行くことを期待するが…。
布を織る時、糸という材料がある。糸を紡ぐ時、毛と言う材料がある。いわゆるモノの場合、こうして、科学的なレベルまで、材料をたどっていけるはずである。が、思考は。思考はどうやって生れたのか。思考は、思考である。言葉の材料は、単語へと分解はしていけるが。たしかに単語を組み立て、単語を材料として思考が出来上がっているとも言えるが。そういうことを、問いたいのではない。思考を構成する要素を明かにしたいのではない。目の前にある、この紙の構成する元素が何であるかを明かにするように、思考を構成する要素を明かにしたいのではない。むしろ、目の前にあるこの紙の形が、いま見えているのは、どういうことか、という問いにどちらかと言うと近い。今ここに紙が、見えている、そのことに気づいている。それと同じように、思考・内言空間に言葉が生れている、そのことに気づいている。これはどういうことなのか。つぶやきが生れ、消え、つぶやきが生れ、消え。

これは、体を伸ばしては、ちぢみ、伸ばしては、ちぢみ、というなにか運動に伴う身体感覚の生滅とも共通するような事象である。思考が現れるとは。思考つまり、内言空間によぎる言葉のつぶやき(あるいは、語りか、叫びの場合もあろうが)は、いわゆる五感的対象として存在していない。それは、直接的に、感知される意味である。例えば、「犬は一般に四本脚をもつ」。こう考えるとき、五感的対象としてではなく、いわゆる「イメージ」として、犬のイメージがあらわれることもあるが、それは、「犬は一般に四本脚をもつ」という思考とは別物である。視覚的イメージによって、「一般に」は表現できないから。

イメージには、五感的様々なイメージがあり得る。視覚的なイメージはもちろん、聴覚的なイメージ、触覚的イメージ、嗅覚的イメージ、味覚的イメージ。
わたしの経験する世界には、五感の空間だけでなく、思考やイメージがあらわれる空間が存在する。わたしはその両方を生きている。

イメージや、思考は、意識的に必ずしも統制されない。
夢がその端的な例であるが、日中でも、「おもわず」考え事をしてしまったり、過去の記憶にとらわれていらいらすることは、日常茶飯である。こうしたとき、考えよう、思いだそう、イメージしよう、と意志されてそれがなされているわけではない。
それは、わたしがしていることではあるが、わたしが統制して意志的に行っているわけではない。

意志的に統制しつつ行うこと、意志的に統制しないで行われること。これらにはどのような違いがあるのか。

意志的に行っているとき、その過程について、十分気づいている。意志的に統制的であることと、意識的であることが、重なってくる。意識的であることなく、意識的に統制的であることは不可能である。逆に、意識的であることすなわち、意志的に統制的であるのだろうか。これはそうとは言えないように思われる。呼吸していることに意識的であっても、呼吸をかならずしても統制しようとはしていない場合もあるから。

 

思考は、どうやって生れるのか。
答えることはできていない。
これは、どうしてじぶんの身体は(或程度思う通り)動かせるのか、という問いと同じでないか。

 

 

尋常でない本。井筒俊彦『意識と本質』

 

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 

 

「三年前の夏、スイスのエラノス学会の食卓で、D・ラウフ教授が、熱っぽい口調で、私の耳に吹き込むように言った言葉を、私は時々憶い出す。「我々西洋人は、今や、東洋の叡智を、内側から把握しなければならないんです。まったく新しい『知』への展開可能性がそこに秘められているんですからね」と。(…)西洋人を俟つまでもなく、先ず我々東洋人自身が、己れの哲学的伝統を内側から、主体的実存的に了解しなおす努力をしなければならないのではなかろうかと、その言葉を聞きながら私は考えていた」
井筒俊彦『意識と本質』後記より

 

ここで言われる「東洋の叡智」、我々にとってみれば、「己の哲学的伝統」が、本書の全体を通して「意識と本質」を主題に、説き起こされているわけであるが…

 

「本質」とは「なんであるか性」。例えば、花を見るとき、意識は花についての意識であり、そのとき見ているそれは花である。通常の我々の意識における経験は、本質的に(なんであるか的に)分節されつくしている。これは花である。これは虫である。これは土である。これは手である。等々。
その、なんであるか性、すなわち本質が、いったいどんな存在身分を持つものであるか。本書では、たとえばこのような問いにまつわる古今の思想たちが、その思想を語る実存的境位――あるいは意識のレベル――と共に語られ、類型・構造化されていく。

 

単なる思想史の文献学的な研究に基づく羅列ではない。
実存的境位、と先ほど言った。
それは直に生きられる体験的事実である。日常とは異なる意識の経験(それが日常へと帰還するものであったとしても)が、生々しく、事例豊かに、叙述される。その意味は、真に経験した人間でなければわからない事柄であるのだろう。蜜をなめたことのない人間に蜜の味を教えることはできないように。しかし、たかが見聞であったとしても、存在-意識の恐るべき神秘に、心を動かされずにはいられない。

 

「己れの哲学的伝統を内側から、主体的実存的に了解しなおす努力をしなければならない」

 

これが尋常なことではないことは、本書の叙述を読めば嫌でもわかる。

このような尋常でないことが書かれている本が、平気な顔をして、街の本屋の棚に並んでいるのは、異様なことだとすら、感じる。

おそらくそれは、自ら道を歩むこと、道を求め、修めること…を意味する。哲学者…知を愛する者。というより、学道の人。

 

 

思考について垂れ流す思考(4)

 

kyodatsu.hatenablog.com

 

 

考えるとはどういうことか、という当初の問いについては、或程度は明らかにすることができたろうか。

これまでの成果は、「当初未だ言いあらわされず、その意味が十分に明示的には表現されてはいない何かについて、言語的に展開し叙述する、つまり意味を固定して行くプロセスである。そのプロセスは、意識的に(気づきの内に)行われるので、そのプロセス自体をも言語的に明示し、叙述することが可能である」というようなもの。

 

思考には、思考を対象とする思考と、思考以外のものを対象とする思考がある。前回はレンギョウの例を盛り込んで、思考の定義を拡張して行ったが、なんだか混乱していた。思考についての思考にも、「あ。」に対応するものがあるのだろうか。レンギョウを見る、ということのように、不明瞭な意味凝縮体が徐々に分節するという事態とはまた別ではないのだろうか。思考すること一般についてではなく、思考について思考することに立ち戻ってもういちど考えたい。


もういっかい、前回の最初のところまで出戻りする。

思考が起るとはどういうことなのだろうか。…と今考えているこのことが、思考が起ると言うことである。ということは、思考がおこるとはどういうことか、と思考について思考している思考の発生について明かにできれば、思考についての思考、についての発生について明かにできるはずだ。

うん、明かなのは、そこに言葉が生れることだ。このように、文字として現すだけでなく、黙考している状態であっても。言葉が生れている。黙考状態で生れる言葉を、内言とか言うこともあるが、いわば、思考空間に、言葉がよぎる。そして、そのような言葉が生れ、よぎることを、観てもいる。あ、今、このような考えが浮かんでいる、動いている、というように。「あれ、わからなくなった」いま、そういう状態。「いま、そういう状態」というのは、「言葉が生れ、よぎることを、観てもいる」ことの例示になっている。「例示になっている」というのは、この一連の文章、つまり思考過程の解説になっている。「解説になっている」ということ自体が、また解説になっている。解説になっている、と叙述している。叙述していると、説明している…。

ここから何がわかるだろうか。いま立ち止まって、考えている。やはり、思考は、運動である。動きつつ、観、動きつつ、観。観るのは自分である。自分を観つつ動く。そうして動いて行っている。吟味しつつ進展する。ただ、進展するのではない。振り返りながら進展して行く。リフレクション、反省という言葉もあるが、まさにそれ。それ(自分と言う運動)について言い、言うということが、それになる、そのような運動。言われた内容についても観、「言う」こと自体についても、観ている。

「何か、言語を産出している。」。…という言葉が来た。これは、今自分がしているその営みについて、言っている。何か、言語を産出している。起こっているのは、そうだ。言語の産出が起っている。言語の産出が起っているという言語の産出が起こっている。

なぜ、起こるのだろう。その言葉が来た。
その言葉はどこから起こるのだろう、とも来た。
言語の発生現場を観ようとしている自分がいる。
自分がいるとはどういうことか。

いつも、言葉がよぎっているわけではない。つまり、いつも思考しているわけではない。そうだ。

何か、ある。何か、言葉として、現れていないが、何か、ある。もういちど。まだ、明かになっていない、何かがあった気がする。その何かがあらわれるのを、もう一度見たい。待って見よう。…。ああ! 「待ってみようとしている」そう、言葉として表わされる、言葉がよぎる前に、待っている状態がある!! 待っている状態について、言葉が発生する。本当か? 本当かと言う疑いの言葉と、疑いの状態は、ほぼ同時に今起こっていたが。

状態を観る、ということが起っている。そして、状態として、観るに特化して居たり、疑っていたり、言葉の波そのものに乗って、今のように字を打ちつつ観ることになっていたりしている。注意がある場所にあったり、別の場所にあったり、動いている。動いているのは何か? 注意が。しかし、注意はそこに何か判断を伴っている注意である。注意と言うのは、何かについて焦点を合わせて観る動き、そこに言葉が伴ってくる。

 

いま、見失った。何かを観ようとしていたのだが。それを失ってしまった。
この観ると言うことは、身体感覚のように感じられる感情的なものに焦点を合わせることもでき、時計の針の音に注意を合わせることもでき、指のタイプの動きに注意を合わせることもでき、タイプしている意味内容に、つまり思考の内容に注意を合わせることもできる。注意を合わせるとは、それにそわせる、現在を共にするような感じだ。

 

この、観るということと、思考することとはどう関係しているのだろう。思考すること、つまり問題にしている、思考について思考すると言う自己言及的な思考と。

思考している。そう、思考している。思考している、という思考を、観ている、だから、思考している、そう、思考している、ということができる。思考していることを観ていなければ、思考について思考することはできないのでないか。
もしかすると、と今思考空間をよぎった思考がある。何かを観ているから、一般に思考することができるのでないか、という考え。

 

時計の音を観ている。だから、時計の音について、叙述することができる。時計の音、交互に、大小の大きさだ。チク、タク、チク、タク、と。これは純粋な感覚ではない。純粋な感覚としては、チクの時にはタクは聞こえず、タクの時にはチクは聞こえない。音の大小を叙述できるのは、これ、鳴っていない音をなっている音と比べるようなことができていることになる。耳にはなっていない音がなっている。どこか、余韻のようになっている。そのような事実があるのだから、しかたない。ふたつを直観的に識別し、大きい、とが高い、と叙述している。

 

イライラしている。音が、あるということ、きこえていない音があるということについて、焦点を合わせようとして、うまく合わせられないから、いらいらしてきた。イライラに焦点を合わせて行くことができる。背中が痛い。そういう身体感覚にも。そこに焦点を合わせると、それについて言うことができる。それについて焦点を合わせることなく、言うことができるだろうか。言うことと、それが焦点になっていることとが、ほぼ同時で、どちらが先かがわからないくらいであっても、何かを言うためには、何かが明かに観られていなければならない。

思考について思考する時、つまり思考について言う時は、したがって、思考を観ていることに必然的になる。

 

思考の動きだし、を止めることができそうだ。言葉が明示化される運動が芽を出すそのとき、止める。そうすれば、思考は止むときもあるが、一瞬のひらめきのように、何かについて言う言葉があらわれる。それは、身体感覚についてであれ、言葉についての言葉であれ。

 

思考について思考する時、起こっているのは、このようなことである。
すなわち、思考空間とでも呼べるところに言葉がよぎる。よぎるのを観ている。よぎっていることについて、何か言う言葉が思考空間によぎる。よぎるところを観ている。思考空間に言葉がよぎることをさらに言う言葉がよぎる。

上で、思考を対象する思考と、それ以外を対象とする思考と、分けたが、どうだろう、一般化することができるだろうか。つまり、思考とは、観ている何かXについて、思考空間を言葉がよぎることである。

 

この問いに答えるためには、「思考以外を対象とする思考」をするとき、どのようなことが起っているか、観て行かなければならない。

 

いや、そんなことを、ぼくは知りたいのか? ちがう。言葉がよぎる、というこの体験的事実について、もっと明瞭に見定めたいのである。言葉は、どこから生れるのか??

たったいま、こうして、この現場で、言葉が生れている。言葉が紡がれている。紡がれているという動詞をいま、選んだ。選んだ、と紡いだ。そうして言葉が生れている。これはどこから、どうやって??? 「どうやって??」がまさしく問いであり、思考の初動であるならば、問いとは、言葉による明示化を希求する注意である。注意とは、ある場所に観入ることである。